2010年1月27日水曜日

内舘牧子のもう一つの短慮〜土俵女人禁制の言説をめぐって



 内舘牧子氏が横綱審議会を満期退任する。メディアは、朝青龍に対する彼女の厳しい舌鋒を回顧して、彼女の伝統を守る姿勢を肯定的に評価した。みのもんたの「朝ズバ!」(20/1/26)でも、特集を組み、その中で、相撲評論家で元NHK相撲中継アナウンサーの杉山邦博氏を電話でつなぎ、彼女の伝統死守の姿勢を高く評価させていた。そのとき、杉山氏は、勢い余ってというか、むしろ確信犯的に、相撲協会が大阪府太田房江元知事に対して土俵立ち入りを拒否した事件を取り上げ、土俵を神域として女人禁制を墨守する協会の論理を支持する言論を展開した内舘氏を絶賛した。
 神域における女人禁制を日本文化の伝統であるかのような錯覚をまたまたメディアを通して人びとに刷り込んでしまった責任は重いし、その原因となった内舘氏の錯覚も同様の責を負うべきだろう。

 ここで、「女人禁制という伝統」について再論しておきたい。
 まず、その女人禁制という慣習を「伝統」であると仮定したとして、それが墨守しなければならないものであるかどうか、リアルな議論から始めよう。
 たとえば、かつて近世において女人禁制を慣習的に維持してきた神社の多くが、すでにその慣習を棄て、女性の入域を認めている事実がある。そもそも、明治政府は、1872年に太政官布告第98号「神社仏閣の女人結界の地廃止・登山参詣自由たるの件」で、女人禁制を基本的に解除している。
 しかし、今日、多くの神社が女人禁制を解いている最大の理由は、氏子組織の弱体化によって、女性労働の支えがなければ、境内の清掃や建物の維持管理などが出来なくなっているからである。いくら「民族の伝統」と叫んでみても、実際に男手が足りなくなると、いずこも平然と女性に門戸を開いてきたのだ。これは、男性労働が不足する戦時下で、女性の社会進出が増進するという世界のどこにでも見られる現象と同じ根をもつ。この事実は、女人禁制などという慣習は、伝統でも何でもなく、男社会の身勝手な女性差別でしかないことを裏付けている。
 鎌倉仏教が、当時の伝統仏教に対して、女性の極楽往生を説いたとき、旧仏教の多くが、負けじと女性極楽往生を認め始めた。その際、どんな法理を展開したかと言えば、死に臨んだとき、仏の法力によって女性を男性に転換することで極楽往生できると説いたそうである。ようするに、組織に翳りが見え始め、危機感を持った旧仏教勢力は、女性を取り込もうと屁理屈を考案したのだ。
 しかし、考えてみれば、宗教にかかわる論理というものは、いつでもそのようなものである。現実の要求を満たすために、教典や神話の故事を引きあいに出して、合理化の限りを尽くすのだ。それが、だから悪いとは思わない。むしろ伝統というような面倒くさいものを扱うときには、そういう屁理屈や柔軟思考があった方がよいのである。

 さて、それでは、女性が土俵に立ち入ってもかまわない理屈をどう構築するのか。相撲協会のために私見をひとつ示してみたい。
 それは、記紀の故事を引いて合法化するというやり方である。たとえば、女性を男性に扮装させて、相撲の神々をたぶらかして、女性を土俵にあげてしまうという手はどうだろうか。日本書紀をみると、女神であるアマテラスは、父イザナギから追放された弟スサノオと対面するとき、弟が自分の国を奪おうとしているのではないかと疑念を持ったため、完全武装し、「御髪を解きて、みみづらに纏きて」つまり男の髪形をして男装で弟を迎えている。
 その神話の故事をひいて、女性が土俵に入域するときは、アマテラスを招魂し、男装の儀礼(たとえば、「みみずら」つまり
髮を左右に束ね、耳の上でまとめる)などの儀礼を済ませて、相撲の神をたぶらかして、土俵に上がっていただければいいではないか。
 この際、「たぶらかし」は姑息だといってはならない。日本書紀では、天の岩戸に隠れてしまったアマテラスをスサノオたちが宴会を開いてたぶらかして天の岩戸を開かせたではないか。これもいわば日本の伝統であろう。意表を突く「たぶらかし」攻撃は、真珠湾で山本五十六もやったのだから。
 伝統は変えてはならないものではない。もともと伝統というものは、実に融通無碍に時代に沿って変化してきたのだ。カルチュラル・スタディーズ派の「発明された伝統」の概念を持ち出すまでもなく、伝統には、それ自身を変えるためのシステム(論理と形式)が内部に組み込まれているものだからだ。
 私が言いたいことは、こういうことである。相撲界は、記紀神話の論理と方法にのってとって、女人禁制などという差別的慣習と決別すべきなのである。それが、できないというのは、伝統に従っているのではなく、不都合な慣習を変えてゆくための伝統の力を失った、あるいは、神話的創造力を失った相撲界全体の衰退以外の何物でもないということである。
 声高に伝統回帰を説く前に、そのことを内舘氏や杉山氏は肝に銘じてほしい。
 

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