2015年9月19日土曜日

SEALDsたちの集会に参加して〜不安と恐怖の感情政治を超えるもの

9月18日夜、参議院で集団的自衛権の行使を容認する安保関連法案が可決されようとしていたとき、SEALDs関西の学生たちが主催する、梅田ヨドバシカメラ前の集会に参加した。周辺は、数千人の群衆であふれていた。
 街宣車の上の若者たちの演説には、すばらしいものがいくつもあった。民主主義の本質を的確に表現し、質が高く、よく吟味され、みずみずしい表現にあふれていた。僕らの時代に流行ったアジ演説の悪しき伝統は影も形もなかった。
 学生たちは、教室でこんな表情をみせてくれることはあまりないのかもしれない。しかし、今、目前の彼らの言葉は、たとえば「民主主義に観客席はありません」と訴える女子学生の言葉は、心から共感と希望に満ちたものであった。
 集会の後、残念ながら、安保関連法案は参議院で可決されたが、しかし、集会に参加して多くの肯定的な手応えを得た。なにより、私自身が、若い世代の学生 たちに対して抱いていたシニカルな幻滅感から解放されたことである。彼らなら意志を繋いでくれるに違いない。そう感じた。
 安倍政権は、一貫して、中国や北朝鮮に対する安全保障上の脅威を煽り、不安感情をテコに法案を押し通そうとした。軍事的脅威と不安による感情政治は、たしかに人々を駆り立てる効果的な道具立てに違いない。しかし、人々は、いつまでそれに耐えられるだろう。
 他方、SEALDsの学生たちの演説は、すくなくとも、そのような不安や恐怖を煽ることを避け、むしろ、不安に駆られている人々の感情的緊張を緩和するような、民主主義に対する希望や主権者である人々に対する暖かな共感にあふれているようにみえた。
 これは、彼らによって意図的に選ばれた戦略かもしれない。しかし、それは、正しい戦略だ。それは、安倍政権の不安戦略より、はるかに上質だからであり、不安でこわばった人間の心を解きほぐすからである。(行動療法的戦略といえるかもしれない。)
 健康不安を抱え、政敵への不信にとりつかれた初老の世襲政治家が語る不安と恐怖の言説と、若々しい学生たちが語る民主主義へのみずみずしい希望と共感の言説が、国会の内と外で対峙している。おそらく前者に勝ち目はないだろう。

2015年7月19日日曜日

敗戦70年〜非戦の決意を伝える北信濃の小さな寺の「石の鐘」の物語


 太平洋戦争下、金属類回収令によって供出させられた梵鐘の代わりに吊るされた「石の鐘」を、戦争の記憶を忘れず、非戦の誓いを守るために、吊るし続ける小さな寺が北信濃の小さな町にある。長野県信濃町、浄土真宗本願寺派「称名寺」。
 戦後
70年、戦争の記憶が薄れる中、憲法解釈が内閣の独断で変更され、海外派兵に道を開く法案が強行されようとしているこの夏、危機感をもって、この鳴らない「石の鐘」に込められた誓いを新たにする集会が開かれた。

 北信濃の黒姫山麓、長野県信濃町にある小さな寺、浄土真宗本願寺派「称名寺」の鐘つき堂には、梵鐘の代わりに、大きな自然石のかたまりが吊るされている。この鳴らない石の鐘は、太平洋戦争下、昭和17年、国家総動員法にもとづき、不足する金属を供出させる金属類回収令によって失われた梵鐘の代わりに、吊るされた「おもり」だった。重い梵鐘を失うと、鐘つき堂は安定が崩れ、倒壊の恐れがあったからである。
 この金属の供出は、寺の梵鐘だけではなく、社会の隅々におよび、子どものおもちゃから台所の鍋釜にも及んだという。

 戦争が終わり、多くの寺では梵鐘の再建が行われたが、この寺では、鳴らない石の鐘を吊るし続けた。戦争の悲惨を記憶に留めるためだった。それは、副住職(当時)の佐々木五七子さん(1929年生)の強い非戦の意思に根ざしていたといわれる。
 それは、また、近在の農家から満蒙開拓青少年義勇軍の兵士として、半ば強制的に満州に駆りだされ、その多くが帰らなかった少年たちをなすすべもなく見送った五七子さんの忸怩たる悔恨の思いに発するものだった。
 
1938年から敗戦までの8年間に義勇兵として駆り出された少年たちは、101千人。中でも長野県は、最大の6500人もの義勇兵を送り出した県となった。
 以来、70有余年、過去には、新しい立派な梵鐘を寄贈したいという多くの申し出があったが、五七子氏は、それを謝辞し続け、石の鐘は鐘つき堂に吊るされたまま、現在に至っている。
 この石の鐘のエピソードを、同じ信濃町にある黒姫童話記念館の館長、和田登氏が敗戦70年に『石の鐘の物語〜イネ子の伝言』(かもがわ出版)という児童文学として作品化した。2015718日、集会は、この作品のお披露目を兼ね、長野県の9条の会が主催して開かれた。
 会場となった信濃町総合センターの
2階大ホールは、300人以上の人々が参集し、ほぼ満席となった。人口9千人たらず(2010年)の小さな町の集会である。人々の関心の高さが伺えた。

 私は、この信濃町にあるナウマン象の化石で有名な野尻湖畔に小さな山小屋をもって22年になる。しかし、これまで、迂闊にもこの石の鐘のエピソードを知ることはなかった。今夏、安保関連法案に反対する各地の活動をネットで検索していたとき、偶然、長野県の情報の中にこの活動のことを発見し、強い関心をいだいた。そして、ぜひこの集会に参加し、また、この寺を訪ね、石の鐘をみてみたいと思うようになった。春学期が終了した日、台風接近の中、街頭にひびく安保法案反対の声にエールを送りつつ、この黒姫山麓の町にやってきた。
 集会に先立って、この石の鐘の実物を見ようと称名寺を訪ねた。県道96号線を信濃町から飯山市に抜けるあたり、富濃集落の中にある小さな寺である。石の鐘が吊るされている鐘つき堂の脇には、立派なシダレヤナギの老木があり、春にはそれを目指して訪れる観光客も多いという。参道の脇には、紫陽花が咲乱れ、紫陽花の花群をとおして、鐘つき堂がみえた。
 参道を登り切ると、中央に本堂、右手に住職が住む庫裡があった。事前に訪問を告げていなかったので、住職は不在で、庫裡の玄関は閉じられていた。逆の左手側に、鐘つき堂が静かに建っていた。
 たしかに、石の鐘が吊るされていた。屈強な大人の男でも、一人では抱えきれないような大きな自然石。失われた梵鐘に対する惜別の思いを表そうとしたのだろうか、その表面にはかすかに「梵鐘記念 昭和十七年…」と彫り込まれた文字が伺えた。
 石の鐘の手前には、鐘を衝く木の
橦木(しゅもく)も吊るされてはいるが、いたずらに石の鐘を撞いて壊さないように住職が橦木の位置をずらしたのか、その先には肝心の鐘はなく、ただ中空を無為に揺れ動くだけになっていた。鐘つき堂から石の鐘の向こうに目をやると、そこには、夏を迎えた北信濃の農村風景がおだやかに広がっていた。

 集会は、午後5時から始まった。会場の信濃町総合会館の2階大ホールは、参集した人々の熱気のせいか、普段は黒姫山からの冷風のため冷房設備のない部屋はすいぶんと蒸し暑かった。
 集会では、最初に、元信濃町町議会議長の中沢則夫氏と真宗明専寺副住職の月原秀宣氏から「戦争を語りつぐ」というテーマのスピーチがあり、それに、石の鐘の寺の住職、佐々木五七子さんのトーク、そして、『石の鐘の物語』の著者で黒姫童話館館長の和田登氏のトークが続いた。途中、真宗児童文学会の柳沢朝子氏による物語の朗読も披露された。トークの司会は、シンガーソングライターの清水まなぶ氏が務めた。清水氏が作った石の鐘をテーマにした歌の披露も行われた。
 トークのなかで、五七子さんが聴衆に向かって繰り返し語りかけた言葉が印象的だった。「私がいいたいのは、これだけです。地球はひとつ、和をもって尊しとなす。これが大切です」と。

 また、物語の作者である和田登館長は、五七子さんの言葉をうけて、次のようなことを語った。
 「今日に戦争を考える際に、どうしても落としてしまうことは、加害者の側に立った想像力を働かすことだと思います。戦争を題材にした多くの児童文学作品がありますが、それらは兵隊になって戦争に出て行ったお父さんを失う悲しみを描いていますが、その出て行った兵隊たちがなにをしたかは描かれていない。向こうにいって何をしたかという実態をもっともっと私達は知るべきだと思うのです。」
 そして、和田氏は、戦時下の子どもたちの間で流行した「夕やけこやけ」の替え歌を披露し、子どもたちの戦争への悲しみと反感がよく表されていると付け加えた。
  夕やけこやけで日が暮れない。
  山のお寺の鐘鳴らない。
  戦争なかなか終わらない。
  カラスもおうちに帰れない。
 集会は、このあと、清水なまぶ氏が、自ら作った大陸引き上げの歌を歌い、最後に、北信出身の高野辰之作詞の「ふるさと」を参加者全員で「兎追いしかの山、コブな釣りし…」と歌い解散した。

 長野は教育県だという。その真面目さと勤勉さは、軍国主義を浸透させる上でも、好都合だったのかもしれない。満蒙開拓義勇軍の志願者を集めるために、その勤勉さは効果を発したのだろうか。けっして豊かではない、山村のすみずみから多くの純真な少年たちが、国家の掛け声に呼応して、大陸に向い、果てた。それらを送り出した側の人々の悔恨の思いは、筆舌につくせないものだったろう。
 戦後、その反省の上に、平和と非戦のための教育が長野の人々の心のヒダの深くに浸透してきたのだと、集会に参加して感じた。戦後の平和憲法、とりわけ憲法9条は、これらの人々にとって、かけがえのない到達点であり、なにがあっても守り通すべき楔なのだろう。
 このようなユートピア的な非戦論が、今日世界の中で、どのような現実的有効性を発揮しうるかについては、「9条で国は守れない」と疑問をなげかける人もいるに違いない。しかし、このようなユートピア的非戦論が、まだ人々の心の中に深く刻みこまれていることが、国家権力の安易な軍事的冒険に対して、根源的な防塁となっていることを忘れてはならない。
 そもそもユートピア的非戦論を訳知り顔に笑う人たちだって、どれだけ世界の現実を知っているといえるのか。それは、かつての勇ましい帝国日本への危険な回帰願望を今風の言説に包んでいるだけかも知れない。
 国際貢献の名の下に、自衛隊を海外派兵し、武力行使できるかつての国家へとこの国を回帰させようとする為政者たちの野心の前に、北信の素朴な村人たちのユートピア的非戦論は、やさしさと力強さをもって立ちはだかっている。



 



 

2014年6月6日金曜日

格差社会に参入するアトム型ロボットを天国の手塚はどう思うだろう

6月5日夜のNHKニュースウオッチのトップニュースは、ソフトバンクが新発売する人型ロボットだった。人と対話できるロボット、あたかも感情的な会話もできるように設計されている。でも、足元を見ると、平坦な床しか移動できそうもないし、重いものを持ってくれそうもない。20万円近い高額商品。なにに使える のかと問えば、老人ホームで、お年寄りの話相手になれるらしい。
 めまいがする。老人ホームでは、生活も出来ないような給料で介護職員たちが働いている。重労働や夜勤で体をいためる職員も多い。その労働をロボットが助けるというならわかる。しかし、もっとも人間がやるのが相応しい感情のコミュニケーションや心の癒やしをロボットにやらせて、重労働は低賃金の人間がやる。
 日本の人型ロボット開発のモデルは、長い間、鉄腕アトムだった。アメリカン・コミックが描くような無骨な鉄塊のロボットではなく、手塚は人間の友達としてアトムを作った。その背景には、人種差別に対する批判が込められていた。奴隷としてではなく、ロボットにも人権を与え、平等な社会を構想した。やさしい友達としての人型ロボット…その夢を日本のロボット技術開発は追ってきた。
 しかし、今、新自由主義経済の下、人間に対する格差や不平等を合理的だと肯定する社会が目の前にある。人間を平然と差別する社会に、人間と友達のように振る舞う人型ロボットが参入する。しかし、この人型ロボットは、会話しかできず、人間の辛い労働を助けない。
 もっとも、格差によって分断された社会にあって、お金はあるが孤立した人々の癒やしの道具として、ソフトバンクの人型ロボットは役立つかもしれない。しかし、人型ロボットと楽しく戯れるお金持ちたちのそばで、過酷な低賃金の労働者たちがもくもくと働く。そんなグロテスクな社会が目前に迫っている。
 天国の手塚は、それをどう眺めているのだろうか。

2014年2月10日月曜日

ETV特集「戦時徴用船〜知られざる民間商船の悲劇」を観た。

ETV特集「戦時徴用船〜知られざる民間商船の悲劇」を観た。無謀な戦争で、南太平洋に伸びきった補給線を維持するため、ロクな援護もなく物資輸送に投入された民間商船。要員の死亡率は、海軍軍人のそれより高かったという。
 彼らが向かった目的地の1つ、ソロモン群島のガダルカナル。かつて調査で行ったことがある。島の野外マーケットで、往時の日本軍のヘルメットが、鉄さびになって売られていた。無残だった。まして、軍人でもない船員たちの死は、もっと不条理だったろう。
 番組の後、調べたら、日本殉職船員顕彰会という団体が、慰霊の活動をしていた。そのHPに、太平洋戦争の開戦理由がこう書かれていた。
「太平洋戦争は、開戦に至るまでの経緯はともかく、直接的な動機は米英を中心とする連合国のわが国に対する経済封鎖、なかでもその殆どを米国に依存していた石油が、米国の「対日石油全面禁輸」によって確保出来なくなったことが、わが国が開戦に踏み切った最大の要因であった。」
 読んでいて、心がなえるのを感じた。「開戦に至る経緯はともかく…」とは何事か。それが一番追及されるべきだろう。満州事変、日中戦争…。無謀で利己的な対外政策。それらの結果が招いた石油禁輸だったのではないか。
 「石油の禁輸が開戦に踏み切った要因」というのも、単純なプロパガンダだ。当時の日本の消費エネルギーの大半は石炭と薪炭だった。石油がなくて困ったのは、動力源をほぼすべて石油に依存していた軍だった。石油禁輸で戦争ができなくなるから、戦争を始めたのが真相だろう。すくなくとも、エネルギー問題の専門家たちは、そういっている。
 戦死した船員たちの無念を慰霊するのは、よいことだ。しかし、だからといって、手前勝手な理屈で内輪だけの顕彰を続けてよいものだろうか。他者と認識の共有をはかる努力が必要なのではないのか。
 靖国問題や慰安婦問題についても同様のことなのだろう。
 「理解を得る」といいながら、内向きの論理に浸り、他者の言い分を聞かず、一方的に理解しない相手を非難するのでは、相手もこちらの言い分に耳を傾けてくれないだろう。そんなギャップの行き着く先が「開戦」なのではなかったのだろうか。

2014年1月15日水曜日

 今日はマーチン・ルーサー・キングJr.記念日

今日、1月15日は、人種差別に反対し、公民権法の成立に命を賭したマーチン・ルーサー・キング Jr牧師の記念日です。人種差別は過去のアメリカの話ではなくて、「在日」外国人に対する憎悪をむき出しにしたヘイトスポーチが拡大しつつある今の日本の 重大課題だと思います。1・17を前にして、この日の重さについてもしっかりと受け止めたいと思います。

 ワシントン大行進で行われたキング牧師の歴史的スピーチは、Youtubeで視聴できます。
http://www.youtube.com/watch?v=HRIF4_WzU1w
 その日本語訳は、アメリカ大使館の以下のサイトで読むことが出来ます。
http://aboutusa.japan.usembassy.gov/j/jusaj-majordocs-king.html

2012年4月21日土曜日

災害とメディアの役割〜スタンド・バイ・ミーの幻聴〜

阪神淡路大震災の直後、東京に暮らしていた私は、被災地の東端に位置する尼崎で暮らす年老いた両親の安否を確かめるため、一人リュックサックに食料や水を詰め込んで実家に向かった。さいわい実家は倒壊を免れていた。さらに尼崎市は停電からも免れていた。しかし、市境である武庫川を挟んで、西宮市は停電と断水が続き、復旧の見通しも立っていなかった。

両親の無事を確認した私は、持参した食料と水を西宮市の知人宅に届けるべく、夕闇の迫る武庫川の鉄橋を渡った。冷たく凍るような夜が迫っていた。橋の中央まできたとき、くっきりと明暗をわける武庫川の向こう側に佇む被災地を見つめた。しんしんと冷え渡る冬の月明かりの中に、それはくろぐろと横たわっていた。

そのとき、突然、ジョンレノンのスタンド・バイ・ミーがどこからか聴こえてきたような錯覚に陥った。

夜が来て
周囲が暗闇に落ち
月の光しか見えなくなっても
僕は 怖くない
君がそばにいるだけで
Stand by me

その歌は、被災地から地を伝わって響いてくるようにも思えた。その幻聴を聴きながら私は気づいた。こうしてここに被災地をみつめている自分がいる。災害の巨大な破壊力にくらべれば、私、いや人間の力はあまりにも小さく無力だ。しかし、ここに被災地をたしかにみつめている自分がいる。そのことを目の前に横たわる暗闇の中にいる人々に伝えたい。その気持はこらえようもなく高まっていった。
そして、そのとき私は、何があっても被災地をずっと見つめ続けていこうと密かに心に誓った。それが、私にできるもっとも確かなことのようにも思えた。

以来、自分自身で、あるいは、友人たちと、あるいは学生たちと、被災地支援のさまざまな活動に携わってきた。手応えを感じることもあったし、無力感に襲われることもあった。しかし、冴え渡る冬の橋の上で誓った、「見つめ続けていく」という心だけは曲げずに来た。

そして、今、災害とメディアの問題をメディア研究者の端くれとして考え、さまざまな提案や議論をする機会もあるのだが、いつも私の心の奥にリフレインしているのは、あの武庫川の橋の上で聴いたスタンド・バイ・ミーなのだ。
それは、メディアが災害時に果たす重要な役割でもあるに違いないのだ。被災地に寄り添い、被災者の声を聴き続けること。災害が起こった直後だけでなく、人々が災害から復興していく、その長く苦しい、孤独な過程にずっと寄り添って、見つめ続けていくこと。そして、それを被災地に伝え続けること。そのことが、もっとも大切なメディアの役割のひとつなのだと思う。

もし見上げる空が砕け散っても
山々が海まで崩れ落ちても
僕は泣かない
涙をこぼさない
君がそばにいるだけで
Stand by me

2011年4月4日月曜日

チェコ国民博物館が構築する民族の大物語



 イスタンブルに研究出張した帰路、すこし足を伸ばしてチェコのプラハを訪ねた。3日間ほどの短い滞在だったが、中欧の民族主義運動に以前からすこし関心を持っていたので、今回の訪問は、スメタナの名曲「我が祖国」に代表されるような、この小さな中欧の国の民族主義の来し方を自分の目で確かめる上でとても有意義だった。
 社会主義体制からビロード革命を経て、資本主義社会の仲間入りをして、はや20年以上たった首都プラハは、その世界的に有名な美しい建築群の表層をけばけばしい商業広告で埋め尽くしながらも、なお美しい街並みを誇っていた。
街並みの見学も楽しかったが、いつものように、訪問国の歴史博物館をのぞくのも、興味深かった。チェコの歴史博物館といえば、国民博物館である。その名の通り、この博物館は、チェコ民族の創世に始まり、その連綿と続く歴史を歌い上げるために、1891年に建設された、ネオルネッサンス形式の荘厳な博物館である。
 少々、大袈裟なファッサードを抜け、館内に足を踏み入れると、そこには、民族の創世神話に登場する女性像や偉大な王たちのブロンズ像が並び、訪問者をチェコ民族の大きな物語へと誘うのである。展示フロアーは3層から成っており、最上階から下へ下りながら、多くのこの手の博物館に観られるように、自然史、考古学的発見、古代史から中世史へと展示が繰り広げられていく。そして、最後に、チェコの政治史や学芸史に貢献した数多くの人物たちのブロンズ像が巧みに配列された、赤絨毯が敷き詰められた大広間に足を踏み入れることになるのである。
 これらのブロンズ像として登場する人物たちこそ、チェコ民族の歴史物語を語る登場人物として、欠くことのできない人々である。そして、これらのブロンズ像に誰が登場し、だれが登場しないかを調べていくことは、なかなか興味深かった。全体をここに記すことは、冗長であろう。いくつか興味を引いた点を挙げれば、政治家の中には、プラハの春を指導したドプチェクはいなかった。作家には、チャペックはいたが、カフカはいなかった。ようするに、この広間を彩るブロンズ像群には、まだビロード革命後の歴史再評価は及んでいないのだろう。
 ただ、しかし、興味深かったのは、たんに誰が登場し、誰が登場しないかという問題だけではない。その人物たちが、どのような配置関係を持っているかという点であった。
 中でも、四角形の広間の手前の一辺を除く3つの辺には、互いに対面しあうように3対の立像が配置されていた。
 正面の左右には、パラッキーとスタンバークが対面し、左袖には、マサリクとフス、右袖には、ネルーダとコメンスキーがそれぞれ対面していた。
これらに加えて、フスの傍らには、スメタナとドボザーク、その反対側のコメンスキーの傍らには、チャペックの像が配置されていた。
 興味深かったのは、これら3対のブロンズ像の組みが何を意味するか考えてみることだった。
 まず、パラッキーとスタンバークの対を考えてみる。パラッキーは、19世紀のチェコに生きた歴史学者であり、チェコ民族をドイツ民族との対抗関係において記述し、また、カトリックに抵抗したフス派の運動をたんなる異端宗派ではなく、チェコの国民主義運動の萌芽と位置づけたチェコ人の歴史観に大きな影響を与えた人物である。これに対し、スタンバークは、植物学者、昆虫学者で、1820年にボヘミアで最初の自然史博物館を開設した人物である。つまり、左にチェコの民族史、右に自然史を象徴する人物を配していて、この軸は、ようするにチェコ民族の領土(自然史)と歴史をめぐる言説のアカデミックな理性による構築を意味する軸であり、博物館という空間を左右に貫く、もっとも基本的な軸というべきものである。
 一方、右辺の軸は、ネルーダとコメンスキーの対面によって構成されている。コメンスキーは、17世紀の宗教家・教育者で、宗教戦争後、チェコを追われ、終生故国には戻れなかったが、チェコ民族の復興にかかる著作を著し、その未来における復興という神話的言説を予告したことで有名な人物である。これに対し、ネルーダは、19世紀の作家で、チェコ愛国主義の復興に力を尽くした人物である。あらかじめ予告された民族の予言と復興という大きな物語の成立と完成にかかわるこの二人の人物が象徴する軸は、まさに民族の大物語の完成に費やされた歴史的時間に係わる軸というべきだろう。
 これに対し、左辺の軸は、マサリクとフスの対面によって構成される。フスは、14世紀の宗教家である。堕落したカトリック教会を批判し、チェコ語による説教で多くの民衆の支持を集めた。ルターによる宗教改革より100年も前に宗教改革の理念を提示したが、コンスタンス公会議によって有罪とされ、火刑によって命を絶たれた。しかし、フスの宗教理念を受け継ぐフス派の宗教運動は、チェコ民族主義の先駆的形態として、パラッキーら後の歴史家たちに評価され、今日にいたっている。その像に対面するマサリクは、19世紀、近代における民族主義運動の指導者であり、オーストリア・ハンガリー帝国からの独立運動を指導し、1918年、チェコスロバキアの独立を勝ち取った。マサリクとフスを結ぶ軸は、いわばチェコ民族主義の政治的覚醒と情念を象徴する軸といえるかもしれない。
 博物館を左右に貫く民族の理性という軸とそれぞれ直交する民族の政治的覚醒とあらかじめ予告された民族の歴史という二つの軸によって、この博物館は理性、情念、時間の3つの糸によって編み上げられた民族の大物語を構築しているのだといえよう。