2010年3月28日日曜日

多文化の街づくりを長田から世界へ・ネットラジオの外国語番組で


27日土曜日の夜、久々にラジオの英語番組に出演した。神戸・長田のコミュニティFMラジオ局FMYYで夜8時から放送しているSoundwaveという英語番組。
阪神淡路大震災以来、神戸に住む在日外国人コミュニティと被災市民がいっしょになって立ち上げた多言語放送局であるFMYYが、震災後15年の経 験をもとに、多文化の街づくりを進めてきた神戸の経験をまとめた英語版の冊子を出版し、同時に、それを特別番組として放送したのだ。その出版を進めるプロ ジェクトの代表ということになっていて、昨夜は、その特別番組にゲストとして出演した。番組はFMの電波と同時に、インターネットラジオ番組としても放送 された。
英語番組に出るのは、何年来のことだろう。昔、文部省の研究所で研究員をしていたとき、太平洋の島々やニュージーランド、オーストラリアなどを 回ってメディア教育の調査をしていたとき、ニュージーランドやフィジーのラジオ放送局にゲストで出演したことがあった。以来、番組出演はテレビもラジオも いろいろとあったけれど、英語番組は久しぶりだった。
だいだい英語で話すと話が長くなる傾向があった。語彙が足りないところに、日本語みたいに早口に話せない。で、勢い説明的になり話が長くなる。 話すと止まらなくなる。局のスタッフからは、簡潔に話してくださいと言われていた。そこで、スタジオに入る前にメモを作って簡単に話をまとめておいた。
ところが、スタジオに到着してみると、担当の番組が終わった連中がスタジオの下にあるバーでワインやビールで楽しくやり始めていた。「やー、土 曜にお越しなんて、おめずらしい」と見知った顔に声を掛けられ、駆けつけ3杯と、ワインをグラスに3杯飲んだ。それで勢いがついて、生放送が始まる午後8 時までには、もうすっかりできあがってしまった。
気がつくと、もう8時。これじゃまずい、と思う間もなく、スタジオに連れて行かれ、番組が始まってしまった。ところが、しずかなスタジオに入ると、突然、眠気が襲ってきた。
番組の進行役のエド君の声が、また城達也なみの低くて、ささやくようないい声。あぶない!もうまったく眠ってしまいそう。ガクッと一瞬意識が飛んで頭がのけぞった。すかさず、ディレクター役の吉富さんが脇腹を突っつきに飛んできた。
そんなこんなで危なかったが、それでも、まあメモを頼りに言いたいことはしゃべり、なんとか1時間の生放送は終わった。いただいた出演料は、すべてその夜の内に、スタッフといっしょにアルコールとなって消えた。めでたし、めでたし。
番組は、ポッドキャストでも聴くことができる。
http://www.tcc117.org/fmyy/20100327_soundwaves.mp3
それにしても、聴いてみて気がつくのだけれど、わたしの英語は、ホントにハワイなまりのピジン英語だと思う。ハワイのおばあちゃんたちに知らせたら、「おまえもすっかりロコ(ハワイ育ちの土地っ子)になったねえ」と言われるかもしれないなぁ。

2010年3月22日月曜日

非実在青少年の性表現規制のおろかさ

ベティーだって体型は幼女だろう?

 あまりに愚劣な表現規制をもくろむ条例案が石原東京都政の下で進行しつつある。
 児童ポルノに対する規制を逆手にとって、表現に対する規制を実現しようという魂胆がまず醜い。そもそも児童ポルノに対する規制は、児童がポルノグラフィーのモデルにされたり、撮影を強要されたりすることによって広義の性産業に搾取されることを防止するために進められてきた政策である。そこには搾取される実在の児童があり、侵害される人権がある。
 ところが、非実在青少年には、そもそも実在していないのだから侵害される人権がない。名探偵コナンのアニメで非実在の人物が殺されたからといって、非実在人物に対する人権侵害があるとして、アニメが処罰の対象になるのか。あまりにも、ばかばかげている。
 日本のアニメ芸術は、歴史的にみれば、絵巻や浮世絵など日本特有の描画芸術に深く根ざすものである。それらの伝統芸術は、性描写を不可分にその重要な構成要素として含み込んできた。歌麿の美人画は、あぶな絵(春画)を抜きにしては、その表現の全体をとらえることはできない。あの綿密で官能的な性描写が、歌麿にその芸術的達成をもたらしたといってよい。
 今日のアニメ文化においても、同様だ。宮崎駿のような衆人から等しく評価をえるようなアニメ文化も、他方で目を覆うような性表現が等しく存在することによって、総体としてのアニメ文化に血と肉が与えられている。
 実際、猟奇的な性表現を生産し続けるプロダクションで、現代のあぶな絵を作画し続けるアニメーターたちが、その一方で、文科省が特選にするような作品の重要な作画作業の一部を担っているということに、気付くべきなのである。
 アニメ文化の振興といって、アニメの殿堂のような愚劣な箱物を作ろうとする愚劣にようやく終止符が打たれようとしたと思ったら、今度は、逆の規制が登場してくる。いい加減にそういうお節介は止めにするべきだろう。
 他方、多くのアニメーターたちが生計のためにポルノグラフィーに手を出している。かれらに現代のあぶな絵を描かせたくないのだったら、彼らにもっと仕事を発注してやればいいのだ。もちろん、それでも描きたい絵師たちは、かならず残るだろう。しかし、今日のようにポルノアニメが氾濫するような状況とは、もうすこし異なった事態が出現するに違いないだろう。
 日本の役人のやることは、またしても、かくのごとく愚かだ。
 

2010年3月6日土曜日

自分の趣味に子どもを巻き込む親〜日産セレナのCM

 日産セレナのCMは、嫌いだ。
 最近流行のボルダリング(岩登り)に親がはまっているのは、まあ個人の趣味だから、何も言うつもりはない。でも、このCMに登場する親は、本当に罪作りだ。
 子どもを自分の趣味に巻き込んで、岸壁を登らせる。ところが、子どもは途中で怖くなって、立ち往生してしまう。それでも、親は叱咤激励して、最後まで登らせる。子どもには、選択の余地がない。親が命綱を握っているからだ。そして、登り終えたところで、子どもは泣いてしまうのだ。それを親はうまくなだめたのだろう。最後に、笑顔が戻って、めでたしめでたし、というストーリーだ。
 しかし、こんな残酷で、身勝手な親心はない。
 子どもは、親が褒めてくれたり、関心を持ってくれたり、喜んでくれたりするのに敏感だ。本当は、そんなことをしたくなくても、親の顔色を読んで、親の先回りをする。きっとこの子も、親の趣味に付き合わされているだけなのに、自分もやりたいと言わされたのだろう。身勝手な親は、子どもが自発的に選択したのだという言い訳を自分に信じ込ませ、子どもを岩登りに追いやったに違いない。途中で、恐怖に怯える子どもにも、お構いなしの親。それを、試練への挑戦だとか、適当な言い逃れをして、最後まで、やらせる。やらせたいのは、親のエゴだ。子どもは、親の願望に、必死になって答えようとしているだけではないか。
 こんなCMは、大嫌いだ。だいたいワンボックスカーなんて存在自体が、子どもに対する親の家族サービスという大きなお世話の代名詞みたいなものだ。子どもなんて、子ども同士つるませて、その辺の路地裏や公園にほったらかしておけばいいのだ。
 と気がつくまでには、私も、同様のことをたくさんやってきた。だって、かくいう私も、かつてセレナに乗っていたからだ。気付くのが遅かった。