2011年3月17日木曜日

抑圧移譲という「おきて」


写真:丸山真男(政治学者)
 戦後を代表する稀代の政治学者である丸山真男が、日本の官僚政治システムの特徴として指摘した、たいへん有名な原理がある。「抑圧移譲」という原理だ。
 組織の上位にあるエリートが、自分の責任を逃れるために、一方的で理不尽な命令や圧迫を「上」から「下」へ次々と移譲していくことで、最終的に組織の一番下位に位置する弱者が、一身に組織全体の責任を押しつけられ、圧迫の犠牲になるという原理である。(丸山真男『現代政治の思想と行動』未來社、1964年)
 3月15日早朝、福島原発事故について苛立ちを募らせた菅首相は、東京電力本社を急襲し、「一体どうなっているんだ」と怒号を発し、事故を処理するのは「あなたたちしかいないでしょう」「覚悟を決めてください。撤退したときには、東電は100%つぶれますよ」などと恫喝したとメディアは報じた。
 震災が発生して以来、福島原発がすべての電力を喪失し、このような事態に向かってつるべ落としに転がりだして以来、対策を東電に任せっきりにし、放置してきた自分の責任は棚上げにして、東電幹部を恫喝したのだ。これこそ、典型的な抑圧移譲ではないか。
 恐ろしいことは、きっと恫喝された東電組織の中では、上から下へと、次々と抑圧が移譲されているに違いないということだ。そして、その抑圧移譲の最終の末端は、昼夜を徹して原子炉の冷却に奔走している現場に違いない。その中には、たくさんの下請け業者の労働者たちもいるだろう。そして、かれらに対して、会社の上層部は、こう耳打ちしているに違いない。
「今回は、死んでくれないか。あんたが放射能を浴びるのを覚悟で原子炉を冷却してくれれば、東電は生き延びれるじゃないか。会社があればこそ、あんたも、あんたの家族も路頭に迷わない。いいだろ。今回は死んでくれ。お願いだ」
 こうして現場は、かつて多くの若者が特攻隊に志願させられたように、死地に追い込まれていくのではないのか。そう思えてならない。
 メディアは、死んでいった彼らを英雄として褒め称えるだろう。自らを顧みず、日本を救おうとしたヒーローであると。しかし、騙されてはいけないのだろう。その美談の背後に、戦前から戦後へと連綿と生き延びてきた抑圧移譲の原理が、厳然と機能し続けているのだ。

 
 
 
 
 

「放射線は怖くない」プロパガンダを超えて


 政府とメディアは福島原発事故の収拾がもはや不可能であることに気づいているのだろう。放射能の不安に怯える一般国民をなだめるために、一斉に「放射線は怖くない」プロパガンダを開始したのではないか。そんな予感がする。
 政府の広報装置と化している地上波TVでは、原子力業界の御用学者がつぎつぎと動員され、「マイクロシーベルトは大したことない」「普段から放射線に囲まれて暮らしている」「放射能対策は花粉症対策と同じ」といった言説を振りまいている。
 こういう状態の中で、きちんとした情報を提供してくれるのは、たとえば、USTREAMで記者会見を中継している原子力資料情報室くらいだ。原子力資料情報室は、湯川秀樹の再来といわれた原子物理学者、故高木仁三郎氏が設立した市民団体である。
 それを観れば、放射線に許容量などという概念が適応できるのは、急性障害についてのみで、晩発性障害(つまり、放射線によって傷つけられたDNAによって引き起こされるガンなどの疾病)は被曝した放射線量とみごとな相関関係を示していることが分かる。そこには、閾値などというものはない。
 人類は、いや、あらゆる生命は、普段から危険な放射線に抗して自らのDNAを守り、生存を続けてきたのである。だから、自然界にも放射線はあるから大丈夫なのではなく、だからこそ、さらなる放射線への被曝は避けなければならないのだ。
 しかし、そのような放射線被曝の危険を自覚しながらも、私は、放射能汚染の不安のある被災地への救援を躊躇するべきではないと考えている。
 数十年前、当時まだ衛生状態の悪かったタイを、ある高名な老農学者に導かれてフィールドワークしていたとき、その老農学者から次のような教訓を学んだ。その老農学者は、私にこう問うた。

「フィールドで、運悪く君が脱水による熱中症に陥ったとしよう。君の前には、メコン川の白濁した流れしかない。その水を飲めばアメーバ赤痢に感染するのは必至だ。しかし、それを飲まねば熱中症で死ぬだろう。さあ、君はどうする?」

 「究極の選択」問題を投げられて、答えに窮している私に、その老農学者は、こう言った。

「もちろん、躊躇せず、メコンの水を飲むんだよ。まず、今そこにある命を守れ。それがなにより大切なのだ。」

 晩発障害を怖れて、今、そこにある命の危機に対処しないのは、愚かだ。
 たとえ、晩発障害の可能性があったとして、今、命の危機にある被災者に手をさしのべないで、人の道が全うできるわけがない。
 どこかの国の政府のように、放射能に怯える自国民の脱出のために、ただでさえ不足している被災地のガソリンを占有し、被災者の命をさらに危機に陥れるような行動はするべきではないのだ。
 「放射線は怖くない」というメディアのプロパガンダのうそを見抜き、「放射線は危険だ」と認識しながらも、しかし、今、そこにある命を助けるのを躊躇してはいけない。今、必要なのは、そのような認識なのではないか。

2011年3月6日日曜日

「外国人」の政治献金を禁止するとはいうが・・・


 前原外務大臣が中学校時代からの知人だという在日韓国人の焼き肉店経営者から政治資金を受けていたことが、政治資金規正法に違反するといって、メディアは進退問題だと大騒ぎしている。国会質問で詰問する自民党議員は、まるでゾルゲ事件を追及する特高検事を彷彿とさせ気味が悪かった。
 しかし、頭を冷やして考えるべきだろう。外国人から献金を受け取ったとはいうが、献金者は在日コリアンだ。かれらの大半は、戦前から何代にも亘って日本に定住し、かつてはれっきとした日本国籍を持っていた日本国民だったが、戦後、一方的に日本国籍を剥奪された人々とその子孫なのだ。日本生まれの日本育ち、もしアメリカやフランスで生まれていたなら、当然、自国民としての市民権(国籍)を取得しているのである。政治資金規正法の外国人献金禁止規定の本来の趣旨からみれば、問題はきわめて限定的なはずだ。
 それにしても、「外国人」を排除するという日本の偏狭さは、ほとんど病的だ。
 ごく最近まで、空港の入国管理ゲートには、「外国籍パスポート保持者」を「エイリアン」と表記していた。「外国人」という言葉を聞いただけで、魔物に遭遇したかのように、恐怖を感じ、身構える。こういう言語感覚のゆがみに無感覚のまま、政治資金規正法を作り、その違反者として前原を、鬼の首を取ったように追及する。その異常さに、気づくべきなのだ。
 しかし、前原自身、そういう言語感覚を利用し、愛国者の顔を売り物にしてきたのではなかったか。今回の出来事で、日頃の自分自身の危険な言葉遣いが、いかにヒステリックで不毛な事態を生じさせてしまうか、前原自身も、冷静に反省してみるべきだろう。

2011年3月4日金曜日

しょせんカンニング、目くじらを立てすぎないように


 京大や早稲田、同志社の入試で、携帯電話とヤフーの知恵袋を利用したカンニングが発覚し、「犯人」の予備校生が逮捕された。メディアは大騒ぎし、警察はまるでテロリストでも捕まえたかのような物々しさだ。カンニングは不正であることは言を待たないが、この騒ぎ方と逮捕は明らかにやりすぎだ、と私は思う。
 しょせんカンニングではないか。「偽計業務妨害罪容疑」などと騒ぐから、話は大袈裟になる。入学試験も基本的には教育活動の一環なのだから、教育上のトラブルは、教育的に処理されるのが原則ではないか。せいぜい受験者全員の公平性の観点から、カンニングした受験生の合格取り消しで十分だろう。
 警察に被害届を出した京大の偉そうなおじさんたちの記者会見をテレビでみていて、ふと40年ほど前、某大学の定期試験で起こった大量カンニング事件を思い出した。
 その年の定期試験に限って、大量のカンニング事件が発生したのである。それら発覚したカンニングのほとんどは、ゼロックス機の縮小コピー機能を使ったカンニングペーパーによるものだった。事件に直面した教授陣は「われわれが学生だった頃は、カンペは苦心して自作したものだ。安易に縮小コピーなど使うとはけしからん」と続発を大いに怖れ、学部長名による特別警告声明を発表し、見せしめ的にきびしい処分を実施した。
 しかし、しょせん学生たちにとってみれば、ひごろ当たり前に使っている日常的テクノロジーを使っただけで、なにも、かれらが格別に悪賢いわけではないし、悪質だったのでもない。そして、なぜその年だけカンニングが多発したかと言えば、なにを隠そう、大学院生としてその年だけ試験監督のアルバイトをしたこの私が、視力2.0という眼力を活用して熱心に仕事をしたからにすぎない。今回の事件も、ヤフーの知恵袋を熱心にチェックしていた閲覧者がいたからに過ぎないだろう。
 今回のカンニングを、IT技術を駆使した犯行とか騒ぐのはいささか大袈裟だろう。かれらにとって、日常的ツールをちょっとルールをやぶって使ってしまっただけなのだから。大騒ぎするのは、入試を実施する大学、報道するメディア、とりしまる警察などを仕切っているオジサンたちが、あまりにも現代のIT環境の進化から取り残されているからに過ぎない。オジサンたちは、IT技術をやすやすと使う若者たちを内心やっかんでいるのはないか。そして、彼らのちょっとしたルール違反を鬼の首をとったように声高に言挙げし、溜飲を下げているように思える。
 考えてみれば、縮小コピーでカンニングペーパーをこしらえたのは、そんなオジサンの同世代たちだったではないか。オジサンたちの中にも、ひょっとして縮小コピーのカンニングペーパーを左手の中に忍ばせたことのある連中もいるに違いない。
 新しいメディア技術を使っているからといって、大騒ぎせず、不正を起こさせないような工夫をこれから考えればよいだけだろう。
 そして、何よりも、あいかわらず一発主義の入学試験に依存しつづける、入学者選抜制度の無策にこそ諸悪の根源があると、この事件から学ぶことの方がよっぽど意義のあることのように思える。