2010年1月20日水曜日

認知的不協和理論でみる小沢政治資金問題とテレビ


                     写真:レオン・フェスティンガー
心理学者のフェスティンガーの有名な認知的不協和理論によれば、人間は自身の中で矛盾する認知を同時に抱えたとき、それを解消するために、態度や行動を変えるといわれている。
たとえば、トマトが嫌いだった男が、恋人の彼女と食事に行った。すると、彼女はトマトが大好きだといって、トマトサラダを注文した。そのとき、その男は、認知的不協和の状態になる。彼女がトマトを嫌いなら認知的不協和は起こらない。認知的不協和は、男の好きな彼女が、男の嫌いなトマトが好きという矛盾した状況になってはじめて起こる。そして、その男は、認知的不協和を解消するため、態度や行動を変化させる。つまり、好きな彼女が好きなんだから自分もトマトを好きになろうとしてトマトを食べる。あるいは、自分の嫌いなトマトを好きな彼女なんて大嫌いだといって、彼女と絶交する。どちらの行動をとるかは対象に対する愛着の程度で変わる。彼女に対する愛着がトマトに対する嫌悪より強ければ、男はトマトを食べるだろうし、トマトに対する嫌悪の方が強ければ、彼女を振るだろう。
最近のメディアと新政権を見つめる人びとは、まさにこの認知的不協和の状態にあるといってもよいだろう。
国民の圧倒的な支持によって誕生した新政権が小沢氏の政治資金問題でメディアに攻撃されている。検察の捜査にはあからさまな政治的な意図がありそうだ。しかし、メディアは検察の情報操作に同調して、一方的に新政権を攻撃しているようにみえる。

支持する新政権をメディアが攻撃する。このとき、国民は認知的不協和を避けるために、つぎのような行動をとるかもしれない。つまり、新政権への愛着を維持するために、新政権を攻撃し続けるメディアを嫌いになって、ニュース番組を見なくなる。あるいは、テレビに対する愛着を棄てきれず、新政権に対する支持を棄てる。
人びとは、どちらの行動を選択するだろうか。テレビ中毒の状態にある人ほど、テレビに対する愛着を棄てきれずに、メディア報道に引きずられ、新政権に対する支持から離れるだろう。しかし、メディアに対する高いリテラシーをもっていて、普段からテレビ報道に対する批判性を高めている人ほど、新政権に対する支持を維持し、逆に、テレビから遠ざかるだろう。
今回の小沢政治資金問題がメディアで騒がれるようになったとき、人びとは、これまでにない反応をした。つまり、小沢問題をワイドショーが取り上げると、視聴率が下がったのである。また、世論調査では、小沢氏に対する不支持率と民主党に対する不支持率とはかならずしも連動しないという傾向が現れた。
私は、この傾向を読んで、国民のメディアリテラシーの水準が上がったという感触を得た。そして、そのことを『週刊金曜日』に寄稿した。
しかし、その記事が活字になるまでの間に、メディア、とりわけ既存の新聞と地上波テレビのさらなる小沢攻撃で、国民の政権支持率は下がり始めた。
ようするに、新政権を支持していた多くの人びとは、認知的不協和を避けるためにテレビを見ることからいったんは離れたものの、やはりテレビなしの生活にはお手上げで、テレビにもどってしまったのだろう。そして、新政権を攻撃するテレビを受け入れる以上、認知的不協和を避けるために、逆に新政権を支持しなくなったのだ。まあ、現状なら、そういうことは起こるだろう。人びとのテレビ中毒が、その原因である。

私は、この際、人びとがとる二つの選択肢があると思う。
ひとつは、そのままテレビのない生活を続けるという選択。私は仕事柄テレビはよくチェックしている。しかし、私の友人たちには、テレビを見ない生活を選択した人びとが結構多い。とくに高学歴で高収入というタイプの人びとに多い。これからのエリートはテレビ離れが進むのだろうという予感を彼らの存在は抱かせる。
もうひとつは、地上波テレビ以外のメディアへの接近をはじめる機会にするという選択である。今回の小沢問題でも、ネット系ジャーナリズムは当初から検察の動きに、きな臭いものがあることを報道していた。また、地上波テレビでは歯に衣を着せたような中途半端なコメントしか出さなかったリベラル派のコメンテーターも、衛星系のテレビ局やラジオでは、はっきりと検察批判をしゃべっていた。すくなくとも、地上波テレビと既成新聞メディアをやめて、オルタナティブなメディアに接近すれば、認知的不協和を避けることはできそうである。
実際、地上波テレビは、もはや斜陽産業である。広告収入は平成19年以来減り続けている。ネット広告が伸び続けているのと対照的だ。地デジ化によって、この傾向はいっそう進むだろう。地デジ化によって、あきらかに総視聴者数は減少するからだ。パイの小さくなった地上波テレビに、これまでと同額の広告料を支払うスポンサーがあったら、バカである。
今回の小沢問題で現れた微妙な視聴者とマスメディアとのずれは、これからますます大きくその亀裂を開いていくことだろう。マスメディアが変わらなければ、その末路はそう遠くないに違いない。