2010年2月22日月曜日

バンガロール、三輪タクシードライバーの友情


 イスタンブールのあと、19日から南インドのバンガロールで開かれている国際会議に出席している。バンガロールは、インドのシリコンバレーとも呼ばれ、IT関連の工場や企業が急速にその数を増やし、成長するインドの核だと聞いていた。どれだけインドが変わったのだろうかと考えていた。ものすごい数の人間が殺到し、その勢いにもみくちゃにされ、しかし、すべてが混沌としていて、何事をするにも一向に埒があかない。そんなインドのイメージが、私にはあったからだ。それが、バンガロールでは変わったのだろうか。
 着いてみると、たしかに、空港の前には、整然とエアポートタクシーが列を作って客を待っていた。雲霞のような人間の群れに取り囲まれてしまうようなことはなかった。空港から街への高速道路には、巨大な広告塔が建ち並び、タクシーは快適に広々とした舗装道路を疾走した。「たいしたものだ」と思った。
 しかし、ひとたび街に入ってみたら、そこにはあのインドが待っていた。
 夕食を食べようと会場からレストランに向かうのに、三輪タクシーを探した。一台のタクシーの運転手がすかさず寄ってきた。タクシーにはメーターが付いているが、動いていなかった。いつもの交渉が始まった。運転手氏は、50ルピーだといった。
 「よかろう」と乗り込んで走り出すと、途中で、「あのレストランはまだ開店していないから、自分が懇意にしている土産物店に寄っていこう」と言い出した。もちろん、土産物店で斡旋料を稼ぐための常套句。「まっすぐにレストランに行ってくれ」といっても、もうまったく聞く耳がない。すると、突然、車を停めて、ここから先は行かないと言い出した。50ルピーじゃ安すぎるというのだ。おいおい、さっき自分で言い出した料金だろう。今更何を、と思っていたら、「店に寄らないなら、追加料金100ルピーを払ってくれ」と言い出した。
 ほらきた。やっぱり。それだったら最初からそう言えばいいだろうに。50ルピーなんて適当なことをいわなければよかったんだ。私にしてみれば、もともと三輪タクシーは格安の交通手段だと思って使っているのだから、阿漕に値切ったりする趣味はない。50でも150でも、かまわなかったんだ。それより、こういう面倒くさいことに巻き込んでくれるなよ。そう言いたかった。
 タクシーを停める。行き先を告げる。メーターを倒す。走る。到着して、メーターが示す料金を支払う。どうしてこう行かないんだろうか。もうまったく、何にも変わっちゃいない。なにもかもが混沌としていて、埒があかない。何が起こるか分からない。そういうインドがそこにはあった。
 「どこがシリコンバレーなんだ」と呆れると同時に、なぜか納得している自分がおかしかった。
 しかし、レストランからのホテルへの帰路、思わぬ出来事に遭遇した。横を走っていた仲間の三輪タクシーのブレーキが突然故障したのだ。助けを求める声を聞いて、私の車の運転手はすかざす自分の車を停め、仲間の車に飛び移り、素手で車を停めにかかったのだ。彼一人ではなかった。数人の運転手たちが、同じ行動を咄嗟にとった。そのお陰で、車は無事に停車し、事故は未然に防がれた。停めに入った運転手の中には、あきらかに腕や脚を痛めた者もいた。しかし、仲間を救うのに、だれも躊躇する者はいなかった。
 彼らが見せた仲間同士の強い絆に私は胸を打たれた。日本でなら、誰がそんなことをしてくれるだろうか? 誰が自分の危険をかえりみず、仲間を助けに飛び込んでいくだろうか? いや、最近の日本にもそういう光景はあった。阪神淡路大震災のときの神戸の市民たちが確かにそうだった。しかし、日本では、大地震でも起こらない限り、そういう光景はみられない。
 ところが、ここでは、日々の労働の中で、人びとはきちんと絆を結んで暮らしている。そんな見上げた男たちの姿がそこにあった。
 インドのシリコンバレーと呼ばれるようなったことの徴か、街には、バイクに幌を付けただけの旧式の三輪タクシーを追い抜いて走る、小洒落たコンパクトカーの姿が目立つようになっていた。いずれ三輪タクシーの姿は消え、小型車のタクシーに変わられていくのかも知れない。しかし、その中で、あの運転手たちが見せた厚い絆は、残っていくのだろうか、それとも失われてしまうのだろうか。
 私たちの社会が経験した経済成長の結末から想像すれば、その答えは、およそ見えている。近代化と経済成長が人間の紐帯を壊していくのだ。そして、人びとはそれを嘆き、「こんなはずじゃなかった」と自問することになるのだろう。
 三輪タクシーの運転手諸君、どうかその絆を失わないでほしい。そういう思いで一杯だった。
 降り際に運転手氏の勇気と友情をたたえて私がはずんだチップに、そんな願いが込められていることを運転手氏は気づいてくれたかどうかは知るよしもないが。

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