2011年4月1日金曜日

公共広告(AC)はどこをむいているのか


震災報道が始まると、通常CMは恐れ入って自粛し、それに代わってACジャパン(旧:公共広告機構)の公共広告がテレビメディアを席巻していく。こういうパターンは、災害時メディアの基本モードになってしまった。それがよいとか悪いとかいうつもりはない。実際、多くの被災者が命の危機に直面し、水や衣料品など、生命を維持する基本的な物資にも事欠く事態に直面しているとき、大量消費を謳歌するようなCMがまったく場違いな印象を人々に与えることはいうまでもないからだ。
しかし、その代替として繰り返し流される公共広告は、もっともな公共善や善行を人々に呼びかけているようにみえるが、すこし奇妙なメッセージをそこに発見しているのは、私だけだろうか。
たとえば、「今、私たちにできること」というタイトルで流されるテレビ広告がそうだ。この広告では、震災際して私たちができるさまざまな行動が呼びかけられている。しかし、その真っ先に呼びかけられる行動が、節電なのである。現地への義援金や支援の呼びかけよりも、節電が優先されるのだ。
どこか変である。東電のエリアなら、それなりに理解できる。計画停電への協力を訴えかけているのだろう。しかし、私がこの広告を視聴しているのは、関西電力のエリアである。たしかに節電は意味のあることだろうが、それが被災地への支援になるという重要度のプライオリティは、きわめて低い。周波数の違う関西・中部・九州・四国からは、ぜいぜい100万キロワットくらいしか電力を被災地には送れないからだ。それなのに、なぜ、今、節電なのか?
この不可思議な呼びかけの背後には、今日のマスメディアのゆがみがいくつか透けて見える。
まず、東京で作られる情報を全国民に押しつけるといういつものやり方だ。東京のニーズが日本のニーズだといわんばかりだ。間違ってはいけない。電気が足りないのは東京だけだ。東京以外の住民は、普通に電気をつかって暮らしていて悪いわけはない。そもそも、普段から不夜城のように電飾で街を飾り立て、湯水のように電気を浪費してきた、その旗頭は東京だったではないか。そのライフスタイルを死にものぐるいで維持するために、福島や柏崎に原発を作ってきたのが東京電力だ。首都圏に住む人びとは、原発が建設される地方の苦悩を観て見ぬふりをしてきたではないか。
その原発が使い物にならなくなって、自分の足許の電気が足りなくなった途端、今度は、上から全国民に向かって節電を説教する。あんたに言われなくとも、節電など、とっくにしている。マリーアントワネットに節約を説かれて激怒したパリ市民の気分と同じ気分を地方の視聴者は感じたことだろう。
つぎに、なぜ被災地への支援より節電なのか。節電の背後には、電力の危機をことさら強調しようというなんらかの意図があるように思えてならない。その背後に、原発はやはり必要だという影のメッセージを読み取るのは私だけだろうか。自然エネルギーへの切り替えや代替エネルギーへの提案など、原発依存構造をみなおすことなく、ただたんに電気が足りない、節電せよというメッセージばかりを「公共」の名を借りて流すことは、ほんとうに公共の利益になるのだろうか。
公共広告機構の会員に名を連ねるのは、これまでの産業構造を支えてきた旧世代の企業たちだ。これらのスポンサーが押しつけてくる「公共福祉」が、ほんとうにこれからの未来の私たちにとって「公共福祉」になるのか、この際、じっくりと考え直してみるべきなのである。

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