2010年1月7日木曜日
地方権力と地域メディアの「政権交代」も必要だ
民主党が政権をとって100日が過ぎた。最近のメディアの論調は、民主党はやはり官僚支配を打ち破れないとか、日米関係を不安定にしたとか、国家戦略が打ち立てられないとか、地方自治体の陳情が受け付けられないとか、そんな話ばかりだ。しかし、本当に明らかになってきたのは、メディアこそが政権交代に追いついていないという事実であり、地方自治体があいかわらず旧政権時代の因習から脱却できていないという事実なのではないか。
ここで考えたいのは、地方権力と地方メディアだ。
民主党は、地域主権を唱え、税源の地域移譲を進めるとマニフェストに書いた。しかし、それでは、税源を移譲される地方があいかわらず公共事業と利権政治に明け暮れているなら、何のための地方主権かわからない。コンクリートから人へと言って移譲された財源が、地方に移された途端、要りもしない空港や狸しか通らない県道に化けては、なんのためのマニフェストだったか分からないではないか。
地方権力は、あいかわらず土建屋政治の利権と談合の構造の中にどっぷりと浸かっている。そして、その地方権力と呉越同舟する地方メディアが支えている。地方紙と地方放送局は、戦時下の産業報国体制に由来する一県一紙体制を諄々と維持し、その系列にある放送メディアが一体となって、地方の政治権力と一体化してきたからだ。これらの構造を変革することなしに、地域主権は真の意味を持てない。
ここで想起されるのは、1960年代のアメリカだ。リベラルなケネディー政権の登場によって、アメリカ政治は一変するかにみえたこの時代のアメリカでは、たしかに1964年に公民権法を制定させた。しかし、公民権法が実効性をもっていった過程をより詳細にみると、連邦政府が推進する人種平等の理念が、共和党が牛耳る地方権力によって、ことごとく妨害されていた事実が浮かび上がってくる。
リベラルな連邦政府に対して、地方の保守的権力は、地方主権を主張して、公民権法の精神を公然と否定し続けたのだ。地方を変えない限り、公民権は実効性をもたないという厳しい現実が、リベラル派に突きつけられたのだった。それでは、このような状況を変えるために、連邦政府を握ったリベラル派は、どのような戦略をとったのだろうか。
それは、地方で活動を行うリベラルな市民活動団体に連邦政府の補助金を潤沢に供給し、地方政治の変革をリベラル派市民たち自身によって、着手するのを資金的に支援したことだ。社会福祉や人種平等、反戦運動などにとりくむ市民活動は、連邦政府の補助金を得ることで、その活動を幅広く展開できただけでなく、必然的に、反人権的、反動的な地方権力の変革へとつながっていった。
もちろん、市民活動団体は政府機関ではないから、その活動は自立的であって、連邦政府がコントロールできるものではない。しかし、地方政治のリベラル化こそが、地方権力を共和党から奪還する決定的に重要な要素であることを見抜いた民主党指導部の戦略は先見性があったというべきだ。
ここから日本の民主党はどのような教訓をえるべきだろうか。今日、市民活動を支える数多くのNPOは資金問題を常に抱えている。これに反して、公益団体が役人が役人のために作った天下り団体であった時代の余韻はいまだ続いている。そんな公益団体は、地方権力の変革の主体にはとうていならない。ここで必要なのは、地方政治を変革する主体としてのNPOに対する決定的な財政的な支援だ。補助金もその一つの方法だろう。しかし、それよりもうすこし賢い方法もある。NPOへの寄付金に対する税控除をひろげ、地方税をその対象とすることだ。所得控除ではなく、全額税控除を認めることだ。
メディアについても、一言触れれば、地方の保守的権力と癒着している地方の商業メディアと対抗するために、非営利のコミュニティベースのパブリックメディアへの財政支援もそのような戦略の一端になるだろう。その原資は、現在、不明瞭な使用が問題化している電波利用料(650億円)を当てれば十分だろう。
税源を地方に移管されることで、地方自治体の財源のパイは、大きくなるだろう。しかし、それが、従来の保守的地方権力の強化を招来するなら、本末転倒ではないか。それを牽制するのが、地方で活動するNPOへの寄付の税控除だ。そうすれば、市民たちは、保守的な地方政府に税金を納めるか、その変革に貢献するリベラルな市民活動団体に寄付するかを選択できるだろう。
政権交代をより確実に定着させるために、地方権力と地方メディアの交代が必要であり、その主体となる市民活動とパブリックメディアの活性化こそ、今、必要なのであろう。それができるかどうかが、新政権が真に変革を担えるかどうかの試金石となるだろう。不安をいだきつつ、期待している。