2011年1月30日日曜日

諫早湾干拓地入植者と満州開拓民


「精算の行方〜諫早湾干拓事業の軌跡」(NHK総合2011.1.29)を観た。
前半で、研究者の懸念や漁民の反対を押し切って、傲慢に進められる公共事業の姿が描かれていた。一旦決まると止められない公共事業。建設業界、地方政治家、中央官僚、それらの目先の利害がその根幹に横たわっている。誰もが知っているのに、止められない。将来、決定的な破綻が訪れることは確実なのに、最後のババを引かないという彼らの狡猾さが、事業を推進させる有力な要因であった。
そして、政権交代によって、その最後の時がやって来た。裁判所は、水門の開門を命じ、菅政権は、それを受け入れた。最後のババを引いたのは、もちろん、彼らではなかった。ババを引いたのは、彼らの甘言に乗って干拓地に入植した農民たちである。
「開門反対」「農地が駄目になる」
と入植農民たちは、口々に叫んだ。
彼らの悔しさは、当然だろう。ただ、このまま開門を命じる高裁の判決に抗して、政府が最高裁まで争いを引き延ばしたとして、何の展望があるのか。菅政権の決断は、遅すぎた決断を少し前倒ししたに過ぎないというべきなのだろう。
「農水省を信じていたのに」
と叫ぶ農民の苦悩の表情をカメラは捉え、番組は終わった。

そして、その映像を見つめながら、私は、同じく、この1月から始まったNHKスペシャル「日本人はなぜ戦争へと向かったのか」(NHK総合、1011.1.16)でリフレインされた事実を思った。満州国建国から日中戦争へと向かう帝国陸軍や外務省のエリートたちの意志決定と責任回避の姿である。
満州国建国と巨大公共事業。なんとよく似ていることだろうか。エリートたちの思惑が交錯する中、一旦、計画(作戦)が決定されると、小さな既成事実が積み上げられていく。その既成事実を前例として、事態は、絶対に後戻りできなくなり、あとは、どんなに不利益や破綻が待っていても、突き進んでいく。そして、最後は、膨大で取り返しの付かない大破綻の渦に吸い込まれていく。
計画(作戦)を立案した連中は、それが破綻するときには、すでに責任を負わない安全な場所に待避しているのだ。
そして、最後のババを引かされるのは、もちろん「国民」という一般大衆だ。
「しらなかった」「国に騙された」

多くの日本人たちが、満州開拓に動員されていった。
大規模農業、王道楽土、たくさんの甘い言葉がささやかれた。入植者たちがその危うさを知っていたか、知らなかったのか、それは分からない。しかし、結局は、条約を破棄して侵入してきたソ連軍から陸軍が退却する時間を稼ぐために、入植民たちは、防波堤として利用され、意図的に置き去りにされた。
戦後、満州から引き上げてきた日本人の多くが、もう二度とこの国のエリートには騙されまいと思ったはずだった。しかし、その教訓は、たやすく忘れ去られたのだろう。
これも「自己責任だ」と新自由主義者たちは、言うのだろうか。国家に騙される方が愚かなのだ。国家リスクをきちんと判断して、干拓地に入植すべきだったのだと。彼らにいわせれば、満州移民も同様なのに違いない。
新自由主義者の言説は、底知れず恐ろしいが、正鵠をえているというべきかもしれない。国家のリスクからいかに逃れるのか。「信じることのできない国家」、「国民を踏み台にして自己の利益を追求するエリートたち」、「国民でいることによってもたらされる厄災」。これからは、日本人も、これらのことを真剣に考慮する時代になってくるのだろうか。

思えば、19世紀以来、列強に蹂躙され、また、内戦やイデオロギー対立による変動にさらされてきた中国の人々の行動様式や心構えが、これからの日本にも、必要なのかもしれない。香港の大陸への返還が決まった途端、海外国籍の取得に奔走した香港の華人たち。彼らの行動をみて、眉をひそめる日本人たちも多かった。しかし、彼らのリスクヘッジ意識の高さこそ、今、見習うべきなのかもしれない。
国債が暴落するぞと脅され、財政政権のためと消費税が嵩上げされ、気がつけば、セーフティネットなき路頭に放り出されている自分を発見したとき、わたしたちは、また国家に騙されたと叫ぶのだろうか。それを叫ばないために、今、何をするべきか、考えておくべきなのだろう。