2011年4月4日月曜日

チェコ国民博物館が構築する民族の大物語



 イスタンブルに研究出張した帰路、すこし足を伸ばしてチェコのプラハを訪ねた。3日間ほどの短い滞在だったが、中欧の民族主義運動に以前からすこし関心を持っていたので、今回の訪問は、スメタナの名曲「我が祖国」に代表されるような、この小さな中欧の国の民族主義の来し方を自分の目で確かめる上でとても有意義だった。
 社会主義体制からビロード革命を経て、資本主義社会の仲間入りをして、はや20年以上たった首都プラハは、その世界的に有名な美しい建築群の表層をけばけばしい商業広告で埋め尽くしながらも、なお美しい街並みを誇っていた。
街並みの見学も楽しかったが、いつものように、訪問国の歴史博物館をのぞくのも、興味深かった。チェコの歴史博物館といえば、国民博物館である。その名の通り、この博物館は、チェコ民族の創世に始まり、その連綿と続く歴史を歌い上げるために、1891年に建設された、ネオルネッサンス形式の荘厳な博物館である。
 少々、大袈裟なファッサードを抜け、館内に足を踏み入れると、そこには、民族の創世神話に登場する女性像や偉大な王たちのブロンズ像が並び、訪問者をチェコ民族の大きな物語へと誘うのである。展示フロアーは3層から成っており、最上階から下へ下りながら、多くのこの手の博物館に観られるように、自然史、考古学的発見、古代史から中世史へと展示が繰り広げられていく。そして、最後に、チェコの政治史や学芸史に貢献した数多くの人物たちのブロンズ像が巧みに配列された、赤絨毯が敷き詰められた大広間に足を踏み入れることになるのである。
 これらのブロンズ像として登場する人物たちこそ、チェコ民族の歴史物語を語る登場人物として、欠くことのできない人々である。そして、これらのブロンズ像に誰が登場し、だれが登場しないかを調べていくことは、なかなか興味深かった。全体をここに記すことは、冗長であろう。いくつか興味を引いた点を挙げれば、政治家の中には、プラハの春を指導したドプチェクはいなかった。作家には、チャペックはいたが、カフカはいなかった。ようするに、この広間を彩るブロンズ像群には、まだビロード革命後の歴史再評価は及んでいないのだろう。
 ただ、しかし、興味深かったのは、たんに誰が登場し、誰が登場しないかという問題だけではない。その人物たちが、どのような配置関係を持っているかという点であった。
 中でも、四角形の広間の手前の一辺を除く3つの辺には、互いに対面しあうように3対の立像が配置されていた。
 正面の左右には、パラッキーとスタンバークが対面し、左袖には、マサリクとフス、右袖には、ネルーダとコメンスキーがそれぞれ対面していた。
これらに加えて、フスの傍らには、スメタナとドボザーク、その反対側のコメンスキーの傍らには、チャペックの像が配置されていた。
 興味深かったのは、これら3対のブロンズ像の組みが何を意味するか考えてみることだった。
 まず、パラッキーとスタンバークの対を考えてみる。パラッキーは、19世紀のチェコに生きた歴史学者であり、チェコ民族をドイツ民族との対抗関係において記述し、また、カトリックに抵抗したフス派の運動をたんなる異端宗派ではなく、チェコの国民主義運動の萌芽と位置づけたチェコ人の歴史観に大きな影響を与えた人物である。これに対し、スタンバークは、植物学者、昆虫学者で、1820年にボヘミアで最初の自然史博物館を開設した人物である。つまり、左にチェコの民族史、右に自然史を象徴する人物を配していて、この軸は、ようするにチェコ民族の領土(自然史)と歴史をめぐる言説のアカデミックな理性による構築を意味する軸であり、博物館という空間を左右に貫く、もっとも基本的な軸というべきものである。
 一方、右辺の軸は、ネルーダとコメンスキーの対面によって構成されている。コメンスキーは、17世紀の宗教家・教育者で、宗教戦争後、チェコを追われ、終生故国には戻れなかったが、チェコ民族の復興にかかる著作を著し、その未来における復興という神話的言説を予告したことで有名な人物である。これに対し、ネルーダは、19世紀の作家で、チェコ愛国主義の復興に力を尽くした人物である。あらかじめ予告された民族の予言と復興という大きな物語の成立と完成にかかわるこの二人の人物が象徴する軸は、まさに民族の大物語の完成に費やされた歴史的時間に係わる軸というべきだろう。
 これに対し、左辺の軸は、マサリクとフスの対面によって構成される。フスは、14世紀の宗教家である。堕落したカトリック教会を批判し、チェコ語による説教で多くの民衆の支持を集めた。ルターによる宗教改革より100年も前に宗教改革の理念を提示したが、コンスタンス公会議によって有罪とされ、火刑によって命を絶たれた。しかし、フスの宗教理念を受け継ぐフス派の宗教運動は、チェコ民族主義の先駆的形態として、パラッキーら後の歴史家たちに評価され、今日にいたっている。その像に対面するマサリクは、19世紀、近代における民族主義運動の指導者であり、オーストリア・ハンガリー帝国からの独立運動を指導し、1918年、チェコスロバキアの独立を勝ち取った。マサリクとフスを結ぶ軸は、いわばチェコ民族主義の政治的覚醒と情念を象徴する軸といえるかもしれない。
 博物館を左右に貫く民族の理性という軸とそれぞれ直交する民族の政治的覚醒とあらかじめ予告された民族の歴史という二つの軸によって、この博物館は理性、情念、時間の3つの糸によって編み上げられた民族の大物語を構築しているのだといえよう。

2011年4月1日金曜日

公共広告(AC)はどこをむいているのか


震災報道が始まると、通常CMは恐れ入って自粛し、それに代わってACジャパン(旧:公共広告機構)の公共広告がテレビメディアを席巻していく。こういうパターンは、災害時メディアの基本モードになってしまった。それがよいとか悪いとかいうつもりはない。実際、多くの被災者が命の危機に直面し、水や衣料品など、生命を維持する基本的な物資にも事欠く事態に直面しているとき、大量消費を謳歌するようなCMがまったく場違いな印象を人々に与えることはいうまでもないからだ。
しかし、その代替として繰り返し流される公共広告は、もっともな公共善や善行を人々に呼びかけているようにみえるが、すこし奇妙なメッセージをそこに発見しているのは、私だけだろうか。
たとえば、「今、私たちにできること」というタイトルで流されるテレビ広告がそうだ。この広告では、震災際して私たちができるさまざまな行動が呼びかけられている。しかし、その真っ先に呼びかけられる行動が、節電なのである。現地への義援金や支援の呼びかけよりも、節電が優先されるのだ。
どこか変である。東電のエリアなら、それなりに理解できる。計画停電への協力を訴えかけているのだろう。しかし、私がこの広告を視聴しているのは、関西電力のエリアである。たしかに節電は意味のあることだろうが、それが被災地への支援になるという重要度のプライオリティは、きわめて低い。周波数の違う関西・中部・九州・四国からは、ぜいぜい100万キロワットくらいしか電力を被災地には送れないからだ。それなのに、なぜ、今、節電なのか?
この不可思議な呼びかけの背後には、今日のマスメディアのゆがみがいくつか透けて見える。
まず、東京で作られる情報を全国民に押しつけるといういつものやり方だ。東京のニーズが日本のニーズだといわんばかりだ。間違ってはいけない。電気が足りないのは東京だけだ。東京以外の住民は、普通に電気をつかって暮らしていて悪いわけはない。そもそも、普段から不夜城のように電飾で街を飾り立て、湯水のように電気を浪費してきた、その旗頭は東京だったではないか。そのライフスタイルを死にものぐるいで維持するために、福島や柏崎に原発を作ってきたのが東京電力だ。首都圏に住む人びとは、原発が建設される地方の苦悩を観て見ぬふりをしてきたではないか。
その原発が使い物にならなくなって、自分の足許の電気が足りなくなった途端、今度は、上から全国民に向かって節電を説教する。あんたに言われなくとも、節電など、とっくにしている。マリーアントワネットに節約を説かれて激怒したパリ市民の気分と同じ気分を地方の視聴者は感じたことだろう。
つぎに、なぜ被災地への支援より節電なのか。節電の背後には、電力の危機をことさら強調しようというなんらかの意図があるように思えてならない。その背後に、原発はやはり必要だという影のメッセージを読み取るのは私だけだろうか。自然エネルギーへの切り替えや代替エネルギーへの提案など、原発依存構造をみなおすことなく、ただたんに電気が足りない、節電せよというメッセージばかりを「公共」の名を借りて流すことは、ほんとうに公共の利益になるのだろうか。
公共広告機構の会員に名を連ねるのは、これまでの産業構造を支えてきた旧世代の企業たちだ。これらのスポンサーが押しつけてくる「公共福祉」が、ほんとうにこれからの未来の私たちにとって「公共福祉」になるのか、この際、じっくりと考え直してみるべきなのである。