2010年1月8日金曜日

「それでいいのだ」から「これがいいのだ」へ

 公共福祉広告で、ここのところ、赤塚不二夫のバカボンのパパのあの有名なフレーズが幾度となく繰り返されている。「それでいいのだ」というアレだ。
 ちょっと神経質そうでバルネラブルな感じの女子高生が、お弁当を食べている。どこかおどおどして自信なさげな風情が、昨今の生命力の乏しそうな若者をよく表しているようにみえる。その不安げな若者に、ナレーションが語りかけることばが、「それでいいのだ」「ありのままの自分でいいのだ」というフレーズだ。
 たしかに、自己肯定は必要だろう。自分を自分が受け入れなければ、アイデンティティの形成はありえない。そして、自己を責めてばかりいては、辛いこともあるだろう。ときには、他者の目とはかかわりなく、自己を無条件に肯定できれば癒されることも多かろう。
 しかし、とはいうものの、そもそも自己とはなんなのか? 他者との関わりを抜きにして、無条件に肯定される自己などあるのだろうか。
 G・H・ミードは、幼年期の自己形成以前の段階から、社会が人間の内側深く浸入していくことに注目して、社会は自己の外部にあるのではなく、自己を自覚したときには、社会は自己の内部にすでに避けがたく存在していることを指摘した。
 そもそも人間が、本来コミュニケーションの道具である言語を使ってしか思考できない存在であるということ自体が、人間が他者との関係性の中で生きる存在であることを裏付けているのだろう。
 自己は他者との関係の中ではじめて位置を与えられる。結局、他者である誰かに「それでいいのだ」と言ってもらう以外に、自己を肯定する方法はないのだ。自分に対して、いくら「それでいいのだ」と言っても、人間は癒されないのだろう。
 社会との関係性を排除して、無限定に自己肯定する自己とは、何なのだろうか? 社会から自己を切断し、あたかも社会との関係性を断つことが自己の救済であるかのような言説は、無意識に内面化された社会が自己を無限に統制し苛んでいくという隘路に私たちを逆に陥らせるのではないだろうか。そうではなく、自己の中に無意識に投影される社会の存在を意識化させ、社会との関係性を回復させることによって、ともすれば閉ざされがちな自己を他者に向けてふたたび語り始めることこそが必要なのではないか。
 「それでいいのだ」と自己肯定するだけではなく、「これがいいのだ」と他者に勇気をもって語りかけることこそ、今必要な営みなのではないかと私には思える。