2009年12月27日日曜日

成長戦略などあるのだろうか?

■巨大コンピュータが支配する1984のような社会は来なかった。  

 民主党のマニフェストをめぐる議論がかまびすしい。暫定税率を撤廃をすると民主党が言っている間は、それはエコに逆行するとメディアは騒いでいた。民主党が財源確保を理由に暫定税率の据え置きを決断したとたん、メディアは公約違反だと騒いでいる。結局、メディアは政策を持たない。ただ、批判するだけだ。どうせ批判するなら、徹底的に批判すれば筋が通るというものなのに、アメリカが普天間移転問題で、いつものブラフ(おどし)を掛けてきただけで、日米関係は危険水域に入ったと言ってメディアは怯える。

 このところの地上波メディアは決定的に誤謬を犯している。私は、そんなメディアに対して批判的だ。というのも、民主党への政権交代で、子ども手当や派遣労働への規制など、生活者に手をさしのべる施策がようやく始まったと私は喜んでいるからだ。バラマキだと言われようと、選挙目当てと言われようと、失業の貧しさや苦難の底にある人びとに、直接、手をさしのべることが必要なのだ。これをセーフティネットという。

 ところが、これに対して、バラマキばかりで成長戦略がないと、またまたメディアは批判する。成長戦略。いい響きの言葉だ。しかし、これほど内容空疎な言葉はない。成長戦略という言葉のもつ胡散臭さは、「不老不死の薬」や「麻雀必勝法」に勝るとも劣らない。

 成長することがあらかじめ分かっているなら、サルでもできる。勝つことが分かっているなら、誰でもギャンブルで大金持ちになれるだろう。しかし、そんなものはない。現実は、不老不死の妙薬を求めた秦始皇帝が水銀中毒で命を縮めたように、成長するからといって莫大な資源を投入したあげく大失敗して破産するというのが、現実的なシナリオだろう。研究開発などというものは、失敗と誤算の死屍累々。そのことは、研究者の端くれである私が一番知っている。

 これまで、官僚やエコノミストと呼ばれる連中が声高に叫んだ成長戦略が、大当たりした試しはあっただろうか。たとえば、コンピュータはどうか?

 七〇年代、通産省は情報化社会がやってくると大騒ぎし、巨大な研究投資を大型コンピュータの開発に注ぎ込んだ。NECや日立、富士通といった大企業はその恩恵に浴して、大いに潤った。しかし、今日、私たちの前に広がっているのは、決して大型コンピュータがうなりを上げている社会ではない。目の前にあるのは、スティーブ・ジョブズがアップルの開発によって切り開いたパソコンがネットワーク化されたIT社会ではないか。今、大型コンピュータの開発に投じられた資源は、ほとんど無駄に帰したとはっきりと正直にいうべきだろう。無駄ではなかったなどという言い訳は、見苦しい限りだ。

 誰も未来など予測できないはずなのに、さも、それが確定的な未来であるかのような言説を振りまく人間はいつの世にもいる。成長戦略などという言い方は、その典型だ。ようするにギャンブルしたいから金をくれという放蕩息子と変わらない。

 もちろん、ギャンブルも時にはよかろう。しかし、人間が命を脅かされているような急迫した事態の中では、自ずから優先順位がある。まず、傷口に手当をしてから、ギャンブルでもなんでもすればよいだろう。傷口の手当てもしないで出血を続けながら、遠い未来の飽食を夢見ることの何と愚かなことだろう。

 成長戦略などというメディアには、要注意である。