国際共通語としての英語は、ビジネスで必要だといいながら、一方で、日本語のすばらしさや固有の価値を説く。日本文化はすばらしい、日本語もすばらしい。この伝統を守れ!と合唱する。
しかし、日本語のどこが固有なのだ。中国語じゃないのか? だって、漢字で満たされているじゃないか。それも漢字が書けないと日本語の能力に欠けるような言い方が大手を振って歩いているじゃないか。
これだけ中国製の文字と表現を取り入れながら、日本文化の独自性と固有性を主張して恥じないというところに、言語ナショナリズムの愚かさがあるのではないか。
言語は、世界各地との文化交流や技術移転、経済支配や交易の中で、融通無碍に変化、発展してきたもので、もともと固有性やオリジナリティなどというものは、希薄なのだ。
日本などは、とりわけそうだろう。中国文明の影響を受けて、模倣と流用を繰り返してきた。その結果が、これほどまでの漢字の重用ではなかっただろうか。
しかし、明治以後の近代化の過程では、ヨーロッパ近代科学や社会科学の概念を漢字熟語に翻訳し、近代化に遅れをとっている中国に輸出したことも事実だ。たとえば、科学、社会、哲学、経済・・・などなど、挙げればきりがない。
日本語の優れた力をあえてあげれば、異種の言語から融通無碍に文字や概念や音を取り込むことができる能力なのではないか。
愚かな本居宣長のような「やまとことば」崇拝思想に毒されず、英語公用語化を受け入れながら、他方で、漢字検定に熱中できる、こういう人びとの節操のないところが、この言語の真の底力なのではないのか。
だとすれば、ひとつ提案がある。1500年前に中国から漢字を輸入し、また、漢字で構成された概念をそのまま借用したように、いっそのこと、外国語の文字と概念とそのまま、原語のまま、原音のまま、日本語の中で使用するようにすればどうだろう。
現在は、外来語という分類を当てられたことばは、カタカナで表記され、原音とはまるで異なった擬音を割り当てられて発音されている。そもそも、中国生まれの漢字を使っていながら、「外来語」などという分類概念を使っていること自体、欺瞞なのではないか。それなら、いっそのこと、しっかりとあらゆる文字と発音を平等に受け入れてはどうだろう。
そうすれば、たとえば、ウィキペディアの以下のような文章
「世界中どこでもマクドナルドやケンタッキー、コカコーラ、ウィンドウズが見られる光景は結局アメリカ国内で見られる文化を他国に輸出しているに過ぎず、「グローバリズム」ならぬ「アメリカニズム」であり、「グローバルスタンダード」ならぬ「アメリカンスタンダード」でしかないと考えられている。地域固有の文化を淘汰する傾向が多いため、左派のみならず、ナショナリストからも批判されている。」
は、こう書くことになる。
「世界中どこでもMcDonald'sやKFC、Coca-Cola、Windowsが見られる光景は結局America国内で見られる文化を他国に輸出しているに過ぎず、globalismならぬ「Americanism」であり、「global standards」ならぬ「American Standard」でしかないと考えられている。地域固有の文化を淘汰する傾向が多いため、左派のみならず、nationalistからも批判されている。」
こうして、漢字だけではなく、アルファベットもアラビックもどんどん取り込んでいく。日本語じゃなくなるって? いや、これこそ生命力みなぎる日本語らしい日本語だといえるのではないだろうか。
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