2026年10月13日火曜日

歌曲「さとうきび畑」をめぐる意味の変容と分断

 ある旧友のSNS投稿

大学時代の旧友が、こんな投稿を同窓会のSNSグループに書き込んできた。

この旧友は、近年、小説執筆に凝っていて、自前で印刷製本した小説冊子を周囲に配るのを趣味にしていた。そんな彼がいうには、今、戦国武将を主人公にした小説書いているのだが、次は、沖縄を舞台にした戦争PTSDをテーマに書こうと思っていると。というのも、先日、NHKでの歌謡番組に流れた森山良子の「さとうきび畑」の熱唱がこころに響いたのだという。とくに、よかったのは、森山良子の「さとうきび畑」とピンクレディの「UFO」が、みごとに共存していること。彼の中では、「さとうきび畑」と「UFO」は時代的に同時進行していたという。どちらもよく聴き唄ったそうだ。だから、その感覚で、沖縄の人々の戦争PTSDをテーマに小説を書きたいというのだ。

 

その投稿を読んで、私は唖然とし、なんともいえない嫌悪の感覚が湧き上がってきた。

しかし、私とは別に、彼の投稿を、当然のノスタルジックな感覚だとして共感をもって受け止めた同窓生もいたようだった。

なぜだろうと考えた。なぜ、「UFO」と「さとうきび畑」は、彼らの脳裏の中で無理なく共存するのだろうか。UFOブームに相乗りしたアイドルの流行歌と、凄惨な沖縄戦で父親を失った娘の心情を歌った反戦歌を、どのような文脈において脳裏で共存させてしまえるのだろうか?私は、かなり深刻に考え始めた。

 

フォークソング「さとうきび畑」の誕生(1967年)

そして、その答えを探すには、すこし時代を遡ってみなければならないと気付いた。

阿久悠作詞、都倉俊一作曲のヒット曲「UFO」が流行したのは、1977年。他方、さとうきび畑は、1964年に米軍占領下の沖縄を訪ねた音楽家・寺島尚彦が作詞作曲した「さとうきび畑」が発表されたのは1967年だった。

寺島尚彦は、しかし、沖縄の人間ではない。寺島は、1930年に栃木で生まれ、東京で育った。東京芸大で作曲を学び、オーケストラ作品でコンクール入賞している。流行歌の作曲家ではない寺島が沖縄を訪ねたのは、復帰前の1964年だった。そこで見た戦争の痕跡や凄惨な犠牲に衝撃を受け、作曲作詞したのが「さとうきび畑」だった。

そして、この曲がフォークシンガー森山良子によって最初にレコーディングされたのは、1969年である。

 

当時、カレッジフォークシンガーとして、反戦歌手ジョーン・バエズの来日公演でバックを務めたりしていた森山良子が「このひろい野原いっぱい」でシングルデビューした後、彼女の2枚めのカレッジフォークソング・アルバムでこの曲を発表したのは、それから5年後の1969年だった。しかも、彼女は、その後、戦後生れで沖縄戦の実相をしらない自分がこの曲を歌う資格があるのかとの自問から抵抗を感じ、30年間にわたって、この曲を歌うことはなかった。

 

NHK『みんなのうた』による拡散(1975年)

だから、「UFO」と「さとうきび畑」は、けっして同時代の曲といえるわけではない。それを脳裏で「共存する同時代の音楽」だと錯覚させたのは、「さとうきび畑」が、広く一般大衆に聴かれるようになったきっかけが、1975年に、当時、人気絶頂にあった、ちあきなおみがNHK『みんなのうた』でこの曲を歌ったこと、そして、それが沖縄復帰後の沖縄ブームと相まって、広く学校教育の中で歌われるようになったことである。

ただ、NHK『みんなのうた』では、「さとうきび畑」の全曲は、歌われていない。1番、2番、3番のみを歌うショートバージョンである。そして、音楽教科書に掲載されたのも、大半がショートバージョンだった。以下が、その歌詞である。

 

1:ざわわ ざわわ ざわわ
広い砂糖きび畑は
ざわわざわわ ざわわ
風が通り抜けるだけ

今日も見渡す限りに
緑の波がうねる
夏の日差しの中で

 

2:ざわわ ざわわ ざわわ
広い砂糖きび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ
風が通り抜けるだけ

昔、海の向こうから
戦がやって来た
夏の日差しの中で

 

3:ざわわ ざわわ さわわ

広い砂糖きび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ
風が通り抜けるだけ

あの日鉄の雨に打たれて
父は死んでいった
夏の日差しの中で

ざわわ ざわわ ざわわ

風に涙は乾いても

ざわわ ざわわ ざわわ

この悲しみは消えない

 

この歌が反戦歌である根拠は、2番の歌詞で、海の向こうからいくさがやってきたと歌われ、そして、3番の歌詞で、鉄の雨に打たれて死んだ父の悲しみが消えないと歌われているからだ。海を超えてやってきたいくさが、沖縄戦を意味し、鉄の雨が、「鉄の暴風」と呼ばれたアメリカ軍の艦砲射撃を意味していることは、沖縄の人たちなら知らぬ者はない歴史的事実だ。

 

いくさの中で死んでいった「父」を歌う

しかし、興味深いことに、この鉄の雨に打たれて死んでいった「父」がどんな人物であったかについては、歌詞はなにも語っていない。いろいろな解釈が可能なのである。沖縄の一般住民なのか、国家総動員法による「根こそぎ動員」によって戦闘要員として徴用された男性なのか、それとも日本本土からやってきた日本軍兵士なのかは、歌詞は明らかにしていない。むしろ、戦争によって命を奪われた父親なる存在の象徴として、具体的な属性を与えることなく表現された。

日本軍兵士か、沖縄の住民かわからないが、とにかくいくさで死んだ犠牲者としての父親。その属性の曖昧さが、この歌が広く反戦歌として日本の一般大衆に受け入れられた一因だと思われる。

 

当時、一世を風靡していた反戦フォークソングの中には、戦争で死んだ父親をテーマにした曲が少なくない。一例をあげれば、1967年に寺山修司が作詞し、「野に咲く花の名前は知らない」の歌い出しで、フォーククルセダーズもカバーした「戦争は知らない」の歌詞には、以下のようなフレーズがある。

戦争の日を 何も知らない
だけど 私に 父はいない
父を想えば あゝ荒野に
赤い夕日が 夕日が沈む

 

戦争で父をなくした娘の心情を歌うこの歌は、戦死した兵士を戦争の犠牲者として憐れむ反戦歌として、人々に広く認知された。寺山が唄ったこの父は「さとうきび畑」のそれに酷似している。
「さとうきび畑」が歌う父に対して、本土の日本人たちは、出征し、沖縄に派遣された兵士としての父親を脳裏に思い浮かべ、沖縄の人々は、猛烈な艦砲射撃と過酷な地上戦に巻き込まれた父親を当然思い浮かべただろう。歌詞が父親の属性をあいまいにしたことは、本土と沖縄、双方にとって、戦争の犠牲を哀悼をもって回顧させたのである。

 

父はたんなる戦争犠牲者なのかという問い〜加害者としての日本軍兵士〜

しかし、ここで一つの疑問が残る。戦死した兵士は、たんなる戦争の受動的犠牲者なのかという疑問である。すくなくとも、敗戦後、今日まで沖縄で粘り強く続けられてきた沖縄戦史研究が明らかにした事実は、本土からやってきた日本軍部隊は、本土決戦までの時間稼ぎのため、軍隊組織の維持と持久戦の継続を最優先し、沖縄住民を保護の対象とせず、むしろ戦闘資源とみなし、酷使し、時に過酷な虐待や搾取を行ったことである。

 

たとえば、住民たちが避難しているガマ(洞窟)にやってきた日本軍兵士には、住民の食料を強奪し、狭隘だからと洞窟から住民をアメリカ軍の砲弾が炸裂する中に追い出し、また、敵に居場所をしられるからと泣く幼児を殺害し、また、スパイの容疑を掛けて、処刑した兵士がいた。「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓への服従を住民にも要求し、自死を強要した。

 

このような歴史的事実を知れば、いくさで死んだ悲しい父さんが、もし日本軍兵士なのだとすれば、彼は戦場でなにをしていたのかを問う沖縄の声に対して、本土の社会は、当然、答えるべき道義的責任を負っているはずだった。

しかし、「さとうきび畑」は、父親の属性をあいまいにすることで、日本本土からやって来た兵士としての父の非人道性と加害者としての戦争責任を包み隠したといえるだろう。

 

ただ、この曲を作詞作曲した寺島が、作詞の過程で、父親が日本軍兵士か沖縄住民かという属性を意図的にあいまいにする戦略をとったというわけではない。というのも、寺島が沖縄を訪れた1964年の時点では、日本軍部隊による住民虐殺や虐待、自死の強要などの歴史的事実の発掘が十分に行われていなかったからだ。

 

たとえば、日本軍による住民虐待の典型的事件だった、久米島で起きた日本軍の住民虐殺(久米島事件)について、本格的な報道が始まったのは、1972年、週刊誌『サンデー毎日』(4月2日号)と『琉球新報』(3月25日付)による報道だった。住民を守るべき軍隊が、住民を殺害したいう衝撃的事実が、日本中を駆け巡った。このようなメディアによる関心の高まりを受けて、沖縄県による調査研究も積極的に開始されるようになった。1974年に始まった沖縄県史の編纂作業に呼応して、これまで沈黙を守りがちだった生存者たちが、スパイの濡れ衣による住民殺害、避難壕からの住民追い出し、集団自死の強要などを次々と証言し始めた。これらの証言は、克明に記録され、『沖縄県史・第七巻』にまとめられた。

 

なぜ日本軍による住民虐待事件の発掘が72年を待たねばならなかったか。一つは、米軍軍政下による言論統制によって、日本のジャーナリズムによる自由な現地調査が制限されていたこと。さらに、米軍による銃剣による支配の横暴や不条理が眼前に繰り広げられる沖縄の苦悩の中で、その苦悩からの「解放」として、本土復帰への期待が、沖縄戦の中で生じた日本軍の虐待や暴力の記憶の想起をためらさせていたこともあるだろう。

 

ところで、60年代以後、沖縄戦に従軍した本土出身の兵士たちの慰霊碑が、激戦地だった糸満市摩文仁の丘周辺に、つぎつぎと建立され始めていた。とくに戦後20年の節目であった1965年からは、「慰霊碑建設ラッシュ」といわれるような様相を呈するようになった。

これらの慰霊碑を訪ねる慰霊訪問団が、当時の本土からの来島者の多数を占めるようになった。これらの慰霊団の別面は、観光客でもあり、沖縄観光の黎明期の姿でもあった。

1964年に沖縄を訪ねた寺島も、おそらくそのような慰霊碑を訪ね、哀悼の誠を捧げ、本土出身兵士も沖縄住民も一体の戦争犠牲者として認識し、その象徴として「父」を描くことは、それが日本兵であろうと、沖縄住民であろうと、そこに違いはないと思ったに違いない。

 

「軍隊は住民を守らない」という教訓

しかし、そのような「父」イメージを沖縄の人々が抱き続けることができたのは、本土復帰までであった。日本軍による住民虐殺や食料強奪、避難壕追い出し、集団自死の強要などが、つぎつぎと明るみだされるようになると、日本軍に対する歴史評価は決定的に変容することになった。

実際、沖縄では、沖縄戦の忘れてはならない教訓に、「軍隊は住民を守らない」という一文がある。この教訓は、今日、広く沖縄の人々に共有された教訓である。

 

2007年、文科省の歴史教科書検定で沖縄戦で日本軍が住民に自決を強制したという記述の削除を求めたとき、沖縄では、それに抗議し記述の復活を求める集会が11万人もの県民を集めた。

2025年、京都出身の政治家、西田昌司参議院議員が、那覇市内で行った講演で、沖縄戦で日本軍が行った住民虐殺や虐待を無視し、沖縄の平和教育を否定する発言をし、それに参政党の神谷宗幣党首も同調する発言をした。これらの発言に対し、沖縄からは全県を挙げたはげしい反発と批判が繰り広げられた。

 

これらのエピソードがものがたるように、「軍隊は住民を守らない」という教訓は、沖縄の人々に広く共有されている。しかし、このエピソードが逆に示唆するように、日本本土では、沖縄戦をめぐる日本軍兵士の英霊神話がいまだ生き延びているのである。そして、「さとうきび畑」が歌う、死んでいった父のあいまいなイメージは、本土では、大戦下の日本軍国主義の加害性を隠蔽し、まるで、沖縄戦に従軍した本土出身の兵士が、沖縄の住民のために奮戦したかのような言説を許す伏線として機能したといえるだろう。

 

「さとうきび畑」は、沖縄でどう歌い継がれたか〜歌碑に刻まれた一文〜

ここで、「さとうきび畑」が、沖縄でどう歌い継がれてきたかを考えなければならない。

この歌が沖縄で歌われるようになったのは、復帰前後、活況を呈し始めた本土からの観光客を案内するバスガイドたちによってであった。ひめゆりの塔や摩文仁の丘などが集中する南部戦跡のバスツアーは、当時の沖縄観光にとって欠くことのできないものだった。この案内を担当したバスガイドたちは、「さとうきび畑」をアカペラで歌うようになったといわれている。ラジオやレコードではなく、バスガイドたちの生歌であったことがここでは重要だ。歌うガイドたちによって口コミで広まっていったこの歌は、沖縄の人々にとって自分たちの戦争の記憶を映した歌だと思っただろう。多くの沖縄の人々が、この歌をウチナーの歌だと認知したことは、自然であった。

実際、復帰前の米軍施政下の沖縄で、鉄の雨に打たれて(=米軍の艦砲射撃で)理不尽に死んでいった父の悲しみは消えないと歌うことは、緊張感があった。しかし、72年の本土復帰を境として、この歌は、むしろ日本軍兵士による住民虐殺や集団自決などに示されるような沖縄戦固有の悲惨さをうたう歌として、沖縄の人々に歌い継がれている。2000年以後になると、沖縄出身のレジェンド級アーティストたちによって、続々とカバーされていった。夏川りみ、上間綾乃などがアルバムに収録し、また、ライブで歌った。

 

そして、その頂点として、2012年に沖縄本島中部の読谷村に歌碑が建設されるのである。

その歌碑にそばには、建立委員会が起草した「ざわわ憲章」が添えられているが、その中に次のような一文がある。

「歌碑は、戦没者の無念の思いを後世に伝えるために活用します。」

この一文は、戦死者を英霊化し、美化する今日の日本の右傾化した風潮とは、あきらかに一線を画しているといえるだろう。

 

観光ソングだと「理解」する本土との乖離

しかし、時代はさらに酷い方向へと移っていく。驚くべきは、日本本土では、「さとうきび畑」は、反戦歌であることさえ、忘れられようとしていることである。たんなる沖縄のトロピカルな観光資源としてのサトウキビ畑を歌った歌として、この歌は聴かれるようになった。

今から10年ほど前、学生たちを連れて、「さとうきび畑」の歌碑の建つ沖縄県読谷村を訪問したことがあった。訪問する前に、事前学習の時間を設けたが、そのとき、この歌を覚えていた一人の学生が、学校の音楽の時間に習ったと言って、こう付け加えた。

「ざわわ、ざわわ…っていうフレーズが、トロピカルな沖縄っぽくて、いい響きですよね。ええ!反戦歌なんですか? ぜんぜん知らなかった。」

 

「さとうきび畑」は、ここに至って、本土では、加害責任の隠蔽どころか、もはや平和の歌ですらなく、沖縄の観光宣伝ソングであるかのような理解がなされている。そのような認識の劣化の象徴的な姿が、NHKの昭和歌謡回顧番組での「UFO」と「さとうきび畑」の「共存」だったというべきだろう。

1970年代末、インベーダーゲームの流行とともに一斉を風靡したピンクレディーのUFOが、その後のビデオゲームのマーケッティングソングの先鞭をつけたように、「さとうきび畑」は、観光沖縄のマーケッティングソングとして、大衆社会に消費されていったのではないだろうか。

 

私にとっての「沖縄」〜本土復帰前の那覇にて〜

しかし、私にとっての沖縄は、そのような存在ではなかった。

私が初めて沖縄を訪ねたのは1969年、高校一年の時だった。組合運動に熱心だったある高校教師から教員組合の沖縄訪問団に生徒代表として参加しないかといわれ、両親の快諾もあって参加を決めた。本土復帰前の沖縄に渡航するには、パスポートが要った。そして、沖縄の駐留米軍高等弁務官が発行するビザが必要だった。参加予定だった教組幹部の一人はビザを拒否されたと聞いた。

夏休み、炎天下の神戸港からの出発だった。黒潮に逆行する2昼夜の船旅は、猛烈な船酔いとの闘いだった。ようやく到着した那覇港の岸壁には、ベトナム戦争で破壊された戦闘車両の残骸がうず高く積み上げられていて、高校生の私を驚かせた。

教組の訪沖団らしく、地元の教員組合との交流会、軍事基地の視察(もちろん中には入れないから、基地のまわりをバスで)、そして、戦跡訪問。摩文仁には、すでに本土出身の兵士のために、多くの県別の慰霊碑が建っていた。車窓から眺める右側通行の道路には、米軍車両が我が物顔に走り回っていた。基地のゲート周辺には歓楽街が形成され、高校生の私の目にも、そこにもやもやとあやしげ雰囲気が漂っているのが分かった。

宿泊はもっぱら船中だったが、一晩、立法院議員で元那覇市長の瀬長亀次郎氏の事務所に泊めたもらった。夜、そこから教師たちに連れられて、ネオンが眩しい国際通りを見て回った。コカコーラが1瓶10セントだった。各地で米軍軍属の家族とおぼしき人々を見かけた。基地はすぐそこにあった。しかし、基地の中の彼らと基地の外側の我らの間には、超えられない分断線が引かれていた。それは、16歳の私にも、あきらかに感じることができた。

 

結局、盛夏の沖縄で、私は一日も海には入らなかった。そのかわり、中学時代から写真部で活動していた私は、精力的に、沖縄で観たことをフィルムに記録した。そして、撮影した写真を高校の文化祭で展示し、沖縄の基地問題とベトナム戦争がもたらす影響を訴えた。私が学ぶ阪神間の工業都市の高校には、沖縄出身の両親をもつ生徒たちも、たくさん在籍していた。彼らが展示を助けてくれた。展示を観に来たある英語教師の一人は、基地問題なんかより、もっと沖縄の伝統文化を展示するべきだと批判した。

今思えば、それもわからないわけではない。しかし、当時の私にとって、沖縄で見た米軍基地の重苦しい存在感とそこから溢れ出てくるベトナム戦争の臭気は圧倒的だった。その沖縄の現実のすぐ背後に、凄惨な沖縄戦の歴史が張り付いていることは、火を見るより明らかに思われたのだ。

 

私にとっての「沖縄」〜ハワイにて、太平洋諸島の戦跡にて〜

その後、私は大学を卒業し、ホノルルにあるアメリカの研究機関の奨学生として、1980年に、ハワイ大学に留学した。かつて独立王国だったハワイは、19世紀末、アメリカに併合され、太平洋最大の軍地拠点として、近代の歴史を刻んできた。その歴史は、近代初頭、沖縄処分によって日本に併合された沖縄のそれと相似形であった。ハワイでは、1980年代、自立をもとめる先住ハワイ人たちの運動が活発に進められていた。そんな歴史をもつハワイで暮らしていることもあって、沖縄のことが脳裏から離れなかった。実際、ハワイには、沖縄をルーツにもつ移民の子孫たちがたくさん活躍していて、かれらとの交流が沖縄をさらに身近に感じさせた。

 

帰国後、文部省の研究機関に職を得た私は、職務で太平洋島嶼国の教育調査に関わり、太平洋の多く島々を巡った。その中には、太平洋戦争の戦場となった島々も含まれた。「餓死の島」といわれたソロモン諸島ガダルカナル島、マキンタラワ玉砕戦が戦われたギルバード諸島(現在のキリバス共和国)タラワ島も訪ねた。そこでみた日本の艦船や兵器の残骸の群々。日本だけが戦争遺物を戦後も放置し続けた。

美しいサンゴ礁に沈没した日本軍輸送船の残骸、首都の路上に放置されたままの日本軍戦闘車両の醜い姿、海岸に異様な姿で朽ち果てようとしている日本軍砲台、野外市場で売られる穴だらけの日本軍鉄兜やアルマイト製のすり減った認識票。そして、これら太平洋で戦われた戦闘が行き着いた最後の戦場が、沖縄であった。太平洋の戦跡を訪ねながら、沖縄のことがいつも私の脳裏によぎった。

 

学生たちとともに訪ねた読谷村のガマを思う

日本の大学でメディア論の教鞭をとるようになって、ほぼ毎年、学生たちを連れて、沖縄の読谷村に研修旅行を企画するようになった。読谷村の地域メディアを訪問するというのが、大学に出した名目上の研修目的だった。私は、そこで、沖縄とハワイとの絆の深さを一層知るようになるのだが、それについては、別の機会に書きたい。

 

読谷村でのフィールドワークに先立って、学生たちと最初に訪ねるのは、沖縄戦の中で、追い詰められた村民たちが集団で自死を図ったちびちりガマ(洞窟)の慰霊碑であった。慰霊碑を守る遺族の方が、同伴してくださることもあった。普段、私の講義を熱心に聞かない学生たちも、遺族の語りには、真剣に耳を傾けたのが印象的だった。

沖縄の各地に、同様の慰霊碑や追悼施設が建っていた。沖縄では、戦争は、いまも、すぐそばにある。それを学生たちも、感じたのだろう。

そして、そのちびちりガマからほんの数分先に、「さとうきび畑」の歌碑が建っている。私にとって、そして、読谷村の人々にとっても、沖縄県民の犠牲を承知の上で作戦され、実行された凄惨な沖縄戦の実相と「さとうきび畑」は、地続きなのである。

 

「さとうきび畑とUFOの時代的同時進行。…その感覚で、沖縄の戦争PTSDに向き合いたい。」

大学で同じ教室で学び、ともに野を散策し、酒を酌み交わした旧友の、卒業後半世紀が経った、その口からこぼれ出た、その意味破壊的な言葉を耳にし、戦慄と落胆を覚える自分がここにいる。おそらく彼は、PTSDの何たるかも知らずに、巷にあふれるある種の流行り言葉として使っているのだろう。しかし、それでは、SNSにあふれる無責任で無邪気だが、実はその背後で真実性と知性を際限なく劣化させる動画や切り抜きとどこが違うのか。

一つの反戦歌が誕生後、50有余年の時の流れの中で、沖縄と本土の間で、そして、私と旧友の間で、その意味が分断され、乖離し、破壊されていく。わたしたちは、今、そんな時代の中に生きているのだ。

(おわり)

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